三次の彼岸花と安芸郡山城 ②

安芸高田市歴史民俗博物館


ヒガンバナを見た後、吉田にある郡山城に行くことにした。

郡山城は、毛利輝元が広島城を完成させ、居城を移すまでの間、毛利の居城であった城である。

ライバル関係だった尼子の月山富田城に行った時から、いつかは行ってみようと思っていたのだ。

安芸高田市歴史民俗博物館
安芸高田市歴史民俗博物館
主に、毛利氏と郡山城に関する資料が展示してある。
展示資料はかなり参考になるものばかりで、お城に上る前に見ておけば理解が深まること間違いなし。
これで入館料300円は安い。おすすめの施設だ。

まずは、お城の近くにある安芸高田市歴史民俗博物館に入ってお城の下調べ。

メインの展示室が撮影禁止なのは少し残念だが、展示資料は豊富でとても参考になった。

博物館に展示してある年表
博物館に展示してある年表
郡山城がいつ築城されたのかははっきり分らないようだが、南北朝時代の1336年(建武3年)に毛利時親が吉田荘(よしだのしょう)の地頭として下向した時には、郡山城を居城としたようだ。毛利元就、隆元、輝元の3代に渡って城域は郡山全山に渡って拡張・整備されたが、1591年(天正19年)、輝元の時代に居城を広島城へと移し、郡山城は廃城となった。
その後、1615年(慶長20年)の一国一城令、1637年の島原の乱を契機に石垣などが完全に破却されている。


郡山城のジオラマ
博物館に展示してある郡山城のジオラマ
郡山城は、北上する可愛川(江の川)とそれに注ぐ多治比川の合流点の北側に位置する。標高390m(比高190m)の山頂付近にある本丸を中心として、放射状に伸びた尾根には270以上の郭、麓には内堀が巡らされ、城域は東西に約1.1km、南北に約0.9kmに及んだという。

個人的にとても気になった展示は、安芸高田市の広報に不定期に連載されている安芸高田市歴史紀行 シリーズ「お城拝見!」だ。

安芸高田市にたくさん残っている山城を詳しく解説してあるのでとても参考になる。


シリーズお城拝見!
シリーズお城拝見!の記事
安芸高田市のホームページから、「広報あきたかた」のバックナンバーがダウンロードできるので、可能な限りかき集めた。
これを参考にして山城めぐりをしなくちゃ。

「広報あきたかた」は安芸高田市のホームページから可能な限りダウンロードしたし、これからしっかり読み込んで山城めぐりでもしてみようかな。


伝御里屋敷跡


博物館に1時間ほどいたため、歴史博物館を出て、郡山城に向かう頃には13時を回ってしまった。

夕方までには車に戻りたいので、急いで出発だ。

郡山城跡の石碑space.jpg郡山城跡 入り口
郡山城入り口
城跡の入り口から、毛利元就の墓所あたりまでは人家が続く。この辺りを歩いているときは、まさかお城があんな深い山の中にあるとは思ってなかった・・・


出発してから、最初に見ることのできる史跡は毛利元就の居館があったという御里屋敷跡。

屋敷跡には、毛利元就公の銅像と、屋敷跡の碑が建てられている・・・のだが、ここでの発掘作業の結果、遺構や遺物と思われるものが出土せず、ここにあったかどうかは疑問視されているようだ。

御里屋敷跡の碑space.jpg毛利元就公銅像
左/御里屋敷跡の碑   右/御里屋敷跡に建てられた元就の銅像
現在、吉田少年自然の家が建っている場所が、元就の御里屋敷跡と伝えられており、ここには元就の銅像と、三矢の訓碑が建てられている。

御里屋敷跡 解説板
御里屋敷跡 解説板
平成3年・4年に試掘された調査では、ここから屋敷跡であることを裏付ける遺跡や遺物は見つからなかったそうだ。
本当はどこにあったんだろう?


まぁ、450年も前のことだし、分らなくもなるよね。


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三次の彼岸花と吉田郡山城 ①

辻のヒガンバナ群生地


植物園や月山富田城、出雲大社などでヒガンバナを見かけているうちに、群生地のヒガンバナを見たくなった。

行き先は三次市吉舎町辻の群生地。2014年9月に行って以来だから、2年ぶり2回目の訪問である。

月山富田城のヒガンバナ
月山富田城のヒガンバナ
月山富田城のヒガンバナ。雨が降る中、傘を片手にしんどい思いをして撮っったんだけど。
どこで撮ったものか分る人なんていないよね・・・


前回訪れたのは、9月21日。前に行ったときは少し時期が早すぎてつぼみばかりだったので、今回は少し遅めの25日を選んだのだが・・・

少し遅すぎたようだ・・・・・

馬洗川に咲くヒガンバナ
馬洗川に咲くヒガンバナ
馬洗川沿いに咲くヒガンバナ。右上に写っている橋が群生地への入り口。
川沿いのヒガンバナは馬洗川の水面に映えて美しい。ゆっくりとお茶でも飲みながら見ていたくなるような風景だ。

群生地の入り口にある川沿いの花はまだきれいなものも多かったが、肝心の群生地に咲く花はほとんどが枯れ落ちているか、白く変色している。

天気も悪いし、少し残念。

群生地に咲くヒガンバナ
群生地に咲くヒガンバナ
群生地に咲くヒガンバナ。
ほとんどが白く変色しているか、枯れ落ちているかだ。週1度の休みでは、見ごろに訪れるのは難しい。
「花のいのちはみじかくて 苦しきことのみ多かりき」という林芙美子の短詩を思い出す・・・
なんて、カッコつけてる場合じゃないよね。休み増やせ!週休2日にしろ!

それでも、なんとかきれいな花を探して写真に撮ってみた。

人生前向きに生きなきゃね。

群生地に咲くヒガンバナspace.jpg小屋の前のヒガンバナ
左/群生地に咲くヒガンバナ    右/小屋の前に咲くヒガンバナ
田んぼのあぜ道や小屋の前にたくさん咲いているヒガンバナ。救荒植物として、日本人とともに生きてきたというのが実感できる。
大切にしなきゃね。

群生地のヒガンバナspace.jpg群生地のヒガンバナ
ヒガンバナのアップ
よく見ると、変わった形をしている。どうしてこんな形になったんだろう?

群生地のヒガンバナspace.jpg群生地のヒガンバナ
密集して咲くヒガンバナ
こんなに密集して咲かなくていいようなもんだけど。

馬洗川とヒガンバナspace.jpg馬洗川とヒガンバナ

馬洗川とヒガンバナ
川の傍に咲いている花はすっきり爽やかな感じがする。
気のせいかな?


ところで、2年前に来た時には、ここでお米を売っていたのだが、今年は売ってなかった。来たのが遅すぎて売り切れちゃったのかな?

次こそは見頃に来て、きれいな花と取れたてのお米を堪能しなくちゃね。


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奥出雲おろちループと月山富田城・出雲大社 ⑧

出雲大社へ


月山富田城の城下町、広瀬の町には、尼子氏ゆかりの史跡が沢山ある。

行ってみたいところは沢山あったのだが、降り続く雨と山中御殿までしか登れなかったショックで心が折れてしまった・・・

とはいえ、まだ帰るには時間も早いので、出雲大社(いずもおおやしろ)に行くことにした。

少しはいいことがあるように神様にお願いしなくちゃね。

出雲大社鳥居
勢溜り(せいだまり)の大鳥居
この勢溜りの鳥居が出雲大社の正門である。神社の西側にある駐車場からは少し歩くようになるが、やっぱりここから入らなきゃ。
月山富田城から出雲大社へは68km。意外と遠くて着くまでに疲れちゃった。

月山富田城のある安来からは思った以上に遠く、着いたのは15時。雨は上がったが、参拝客の多さに辟易。
着いた途端帰りたくなったけど、とりあえずお詣りだけはしなくちゃね。


出雲大社境内の兎像
出雲大社のウサギ像
因幡の白兎の伝説にちなんで、境内のあちらこちらに兎の像が設置してある。
ところで、因幡の白兎に出てくる和邇(ワニ)だが、山陰や広島県北部では鮫のことをワニと呼ぶので、昔からサメの事だと思っていたのだが、普通のワニとする説などいろんな説があるらしい。

境内には、祭神である大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)と、大国主大神が助けたという因幡の白兎の伝説にちなんで、ウサギの像が多数設置してある。

縁結びの碑(いしぶみ)
縁結びの碑(いしぶみ)
日本書紀では、大国主大神は、ヤマタノオロチを退治したスサノオノミコトの息子ということになっているらしいのだが、古事記では、スサノオノミコトの娘である須勢理毘売命(スセリビメ)と結婚したことになっているそうだ。
この石碑は、様々な試練を克服した末、むすばれた二人が誓いの盃を交わす様子を描いたものだそうだ。
個人的には、お酒を酌みかわすウサギの像の方がかわいくていいけど。今度来た時は、境内にいるウサギ全員の写真でも撮ってみるかな。

兎の像は、境内のあちらこちらに設置してあり、酒を飲んでいるのや、まわしを締めたのまでいるらしいから、全部探してみるのも楽しいかもしれない。

御慈愛の御神像
御慈愛の御神像
ワニに皮を剥かれたうえ、大国主の兄弟である八十神(やそがみ)に騙されて海水を浴び、痛みに苦しむことになったウサギと、それを助けた大国主大神の像である。
その優しさのお陰なのか、因幡の八上比売(やかみひめ)に選ばれ、結婚することになったという。
その後、八上比売は大国主との間に子供(木俣神)をもうけたが、正妻である須勢理毘売命を恐れて実家に帰っちゃったらしいけどね・・・

拝殿と本殿でお詣りをした後、本殿の周りをぐるっと一周してみたが、さすがに大きい。

出雲大社 拝殿space.jpg出雲大社本殿
左/拝殿  右/本殿
出雲大社では、「2礼2拍手1礼」ではなく、「2礼4拍手1礼」が正式な参拝方法になっているので、注意が必要だ。
ご縁を結ぶ神様ということで、仕事の御縁をお祈りしてきた。いい仕事、紹介してください。

今の本殿は延享元年(1744年)に造営されたもので、高さ8丈(24m)だが、神社の案内板によると、古代の本殿は高さが16丈(48m)もあり、東大寺大仏殿(高さ15丈)よりも大きな建物だったという。

出雲大社の案内板
出雲大社案内板
出雲大社は、国津神(くにつかみ)であり、葦原中国(あしはらのなかつくに)を作った大国主大神が、天津神(あまつかみ)に国譲りをした際、その功績を称えて創建されたといわれている。
いつ創建されたものかはよく分からないが、斉明天皇5年(659年)に、厳神之宮(いつかしのかみのみや)として、神殿を修復した記録が残っているそうだ。

本殿の裏にもウサギの像が何体も立っていて、大国主大神のことを今でも見守っているようだ。


北側から見た本殿space.jpg本殿を見守るウサギたち
左/本殿  右/本殿を見守るウサギたち
本殿裏には、ウサギたちの像がいくつも並んでいた。

本殿裏のうさぎたちspace.jpg本殿裏のうさぎたち
本殿裏のうさぎたち
読書したり、ラブを注入したり、いろんな奴がいる。なんか楽しそう・・


境内に咲いたヒガンバナも綺麗だったし、たまには出雲大社まで足を延ばすのもいいかも。

ただ、次に来るときは、早朝の静かな時間に来たいな。

出雲大社のヒガンバナと蝶space.jpg出雲大社のヒガンバナと蜂
出雲大社の境内に咲いたヒガンバナ
左側にはクロアゲハ、右側にはミツバチが写っているのが分かるかな。それだけだけどね・・・





★★★★★Data★★★★★★★★★★

1.お出かけした日: 2016年9月22日(木)
2.しんどいわポイント(しんどさを表わします):★★★☆☆
3.目的地までの所要時間(広島市内~おろちループまで):4時間30分(150km)
4.走行距離:449Km(自家用車) +13,404歩( 徒歩9.7Km)(走行距離は吉田からではなく、広島市内からカウント)
5.消費エネルギー:ガソリン22.45ℓ(ガソリンはリッター20Kmで計算)+363.8Kcal(脂肪燃焼量51.9g)
6.地図はこちら


奥出雲おろちループと月山富田城・出雲大社 ⑦

月山富田城 ⑧(山中御殿)


へこんでいても仕方がないので、ゆっくりと山中御殿を散策してみる。

山中御殿
山中御殿
山の中とは思えないほど広大な敷地が造られている。ここにどんな建物が建っていたのだろうか。

月山富田城は、尼子氏が滅んだ後、毛利・吉川が支配し、関ヶ原の合戦後、毛利氏が萩に転封になってからは堀尾忠氏(ほりおただうじ)が城主となった。

堀尾忠氏は、父親の吉晴とともに月山富田城を近世城郭に作り変えているのだが、この山中御殿にも、堀尾氏の時代に壮大な居館が建設されたらしい。

山中御殿
山中御殿
手前の石垣から奥の重機や車のある所までが山中御殿。
松江城建築の際には、解体した富田城の木材も利用されたらしい。ひどいや・・・・

しかし、①城が内陸にあり、交通が不便だったこと、②城下町を整備するのに、土地が狭かったことから、1611年(慶長16年)に松江城を完成させて、移転。月山富田城は、1615年(元和元年)の一国一城令により、破城となっている。

せめて正確な図面とか絵図が残っていれば良かったのに、とても残念。

山中御殿 案内板
山中御殿 案内板
独特な形をした塩谷口の門跡などが見どころらしい。
石垣の造りなどから、堀尾氏の時代の物と推測されているようだ。毛利と尼子が戦っていた頃のお城ってどんなだったのかな?

それでも、山中御殿の案内板によると、山中御殿平には、独特な形をした塩谷口の門跡、菅谷口の門跡、山頂のお城へと続く七曲りと呼ばれる軍用道などが残り、往時の面影を残しているという。

立ち入り禁止だったから、どれも見られなかったけどね・・・・

雑用井戸space.jpg雑用井戸
雑用井戸
菅谷口付近に残る雑用井戸。雑用ってなんだろう?洗濯とかに使ったのかな?

菅谷口の門space.jpg菅谷口の石垣
左/菅谷口の門跡   右/菅谷口の石垣
左は菅谷口に残る門跡。石垣の所には櫓も建てられていたようだ。 右は石垣を外側から見た所。

七曲り 入り口space.jpg七曲り
左/七曲り入り口   右/七曲り
左は七曲りの入り口。右は七曲り。本当ならここから山頂のお城へ行けるはずだった。無念・・・


結局見られたのは、雑用井戸と七曲りの入り口、菅谷口の門跡のみ。せめて山頂の本丸跡だけでも見たかったな・・・

塩谷興久の墓と飯梨川の流れ


車を停めていた道の駅に戻り、道の駅のすぐ傍にある塩谷興久(えんやおきひさ)の墓を見に行った。

塩谷興久の墓
塩谷興久の墓
所領に対する不満から反乱を起こしたともいわれている。
この反乱は大規模なものとなり、尼子家中を二分する争いとなったようだ。4年も続いたこの乱によって、尼子の勢力は大きく減衰することとなってしまった。
月山富田城の麓にひっそりと建てられた墓だが、苔むした宝篋印塔の笠の部分が落下していたりとか、結構扱いがひどい。お願いだから直してあげて。

塩谷興久は、尼子経久の三男だが、1530年(享禄3年)に反乱を起こした人物である。

最後は、妻の実家である備後甲山城の山内直通を頼ったが、4年後の1534年(天文3年)に自害に追い込まれた。

山陰の覇者と呼ばれた尼子経久だが、長男の政久は早くに戦死、二男の国久は新宮党事件で粛清され、三男の興久はこうして反乱を起こして亡くなっている。

こうした一族の団結力のなさが、毛利との差だったのかもしれない。

月山富田城や尼子氏のことがもっと知りたかったので、道の駅の傍にある安来市立歴史資料館に入ってみたのだが、そこに富田川河床遺跡(とだがわかしょういせき)の事が書いてあった。

安来市立歴史資料館
安来市立歴史資料館
ワンフロアーだけの展示で、情報量はあまり多くはない。あまり期待するとがっかりするかも。
でも、安来の地名は、スサノオノミコトがこの地に来て「私の心は安らかになった」といったことに由来するとか、富田川河床遺跡のことも書いてあったので、少し勉強になった

それによると、富田川(現在の飯梨川)は、たびたび氾濫を起こしたが、1666年(寛文6年)に起きた大洪水のために、城下町は壊滅的な被害を受けたらしい。

しかも洪水は、川の流れそのものを変えてしまい、かつての城下町は富田川の下に沈んだために、今の町(広瀬町)がある場所に町を移転したのだそうだ。


飯梨川(かつての富田川)の流れ
飯梨川の流れ
この川が流れているところは、昔は城下町だったらしく、河床からは、昔の住居跡や井戸、生活用具などが多数出土したそうだ。

歴史資料館を出た後、河原の方に行ってみたが、そこにも遺跡のことが書かれた案内板が置かれていた。
富田川河床遺跡の案内板
富田川河床遺跡の案内板
城下町が川底に沈んだため、初代広瀬藩主 松平近栄(ちかよし)が新たな町づくりの許可を幕府からもらっている(広瀬藩は松江藩の分藩)。
花崗岩の多い中国地方は、もともと砂が川に流入しやすいうえに、たたら製鉄の鉄穴流し(かんなながし)によってたくさんの土砂が上流から流れて堆積していったのも洪水が多かった理由らしい。

月山富田城というと、尼子と毛利の戦いのことばかり頭に浮かぶけど、いろいろと大変な歴史があるもんだね。



奥出雲おろちループと月山富田城・出雲大社 ⑥

月山富田城 ⑥(花の壇から山中御殿へ)


花の壇から山中御殿へ行くには、いったん花の壇から急な下り坂を降り、細い道を歩いて行かねばならない。

雨が降って滑りやすいし、結構しんどいけど、お城だからしょうがないよね・・・

花の壇を降りる道space.jpg花の壇から山中御殿へ続く道
左/花の壇から降りる道    右/花の壇から山中御殿へと続く道
花の壇から降りる道もかなり急な坂道で、しかもつづら折りになっている。下手すると、下まで滑り落ちそうだ。

花の壇と山中御殿の間には、深い堀切が造られているのだが、その手前に昔の通路跡が保存されていた。

花の壇と山中御殿の間の堀切
花の壇と山中御殿の間の堀切
かなり深い堀切。両側から弓矢や鉄砲で攻撃されるとひとたまりもないだろう。

通路跡space.jpg通路跡の地層
左/通路跡  右/通路跡の地層の断面
通路が雨などで崩れないよう、2mにわたって、真砂土と粘土を14層に固めて頑丈にしてあるらしい。これを版築と呼ぶそうだ。

一見、何でもない通路だが、雨で崩れないように真砂土と粘土を14層に固めて頑丈にしてあるらしい。城全体がこんな感じで手間をかけて造られているのかな?

すごいとは思うんだけど、作業に駆り出された農民達はたまったもんじゃないよね・・・・

月山富田城 ⑦(山中御殿)


通路跡から50mほど歩くと、山中御殿の石垣が見えてくる。

山中御殿の石垣
山中御殿の石垣
かつて城主が住んだという山中御殿。城に通じる3つの通路(塩谷口、お子守口、菅谷口)はすべてこの山中御殿に繋がっており、文字通り、最後の砦となっている。
郭の周囲は5mほどの石垣で囲まれ、厳重に守られているが、ここを落とされても山の上に築いた城に籠って、守り抜くという二段構えの城になっている。

山中御殿の手前側(北側)にも2mほどの石垣が築かれていて、石垣の上はかなり広い平坦地となっており、何らかの建物が建っていたと思われる。

山中御殿前の石垣space.jpg石垣の上に登ったところ
山中御殿前の石垣
何らかの建物が建っていたのだろう。山中御殿の傍にあるし、役所的なものだったのかな?

山中御殿前の郭からの眺め
山中御殿前の郭からの眺望
端の方まで歩いて行くと、花の壇に再現された小屋と、堀切りが見える。城の防衛上も重要な場所だったのだろう。
遠くに見える山は京羅木山(きょうらぎさん)。第一次月山富田城の戦いの際に、大内義隆が本陣を置いた場所だ。

そして、ついに山中御殿平(さんちゅうごてんなり)に到着。

ここは、城主の居館のあった場所で、城へと続く三本の道(菅谷口、塩谷口、お子守口)がすべてここに繋がっているという、城の中核となる場所である。

ここと、山頂の城跡に上がるのが楽しみで、雨の中を朝ごはんも食べずに登ってきたようなものなのだが・・・

よく見ると、山中御殿の南半分が工事のために立ち入り禁止になっていた。しかも、あろうことか、山頂の本丸へと続く道、菅谷口へと続く道も立ち入り禁止になっているではないか。

工事中の山中御殿平space.jpg通行止めになっている本丸への道
左/工事中で、立ち入り禁止になっている山中御殿平(さんちゅうごてんなり)  右/通行止めになっている本丸への道と菅谷口へ続く道
山中御殿平の南半分が立ち入り禁止で、大手門の跡や、屋敷の跡などが見られない。それだけならまだしも、本丸へ続く道まで通行止め。なんてこったぁ。


ここまで来て、どういう仕打ちですか・・・・・



プロフィール

しんどいわ太郎

Author:しんどいわ太郎
メインで使っているパソコンの調子が悪くなり、今年に入って2度リカバリーをしたのだが、昨日、また動かなくなった。
組み直すお金もないし、どうしよう・・・・

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