吉水園と深入山の紅葉 ①

温井(ぬくい)ダム


11月、広島は紅葉の時期を迎える。

どこに紅葉を見に行こうか迷ったのだが、久しぶりに安芸太田町加計(かけ)の吉水園(よしみずえん)に行くことにした。

朝5時に自宅を出発。(貧乏なので)高速道路は通らず、191号線を通って加計を目指す。

太田川
太田川
191号線は、広島一の河川 太田川の側を走る道。太田川の流れを横目に見ながら、のんびりと走るのは気分がいい。高速道路を通って、一気に目的地を目指す人には分からない贅沢な時間なのだ。(別に高速道路に乗れないのをひがんでいるわけじゃないからね。勘違いしないでよね!)

加計に着いたのは7時前。吉水園は9時に開園なので、近くにある温井ダムに行って時間をつぶすことにした。

温井ダムは、太田川の治水と利水(水道用水、水力発電)を目的に、太田川の支流の一つである滝山川の中流部に建設された多目的ダムである。

温井ダム
温井ダム
温井ダムは洪水調整、河川環境の保全、水道用水の確保、水力発電を目的に造られた多目的ダム。1982年(昭和52年)から建設に着手。竣工は2001年(平成13年)。ダム湖は温井地方に伝わる「江の淵の大蛇」の伝説にちなんで、龍姫湖(りゅうきこ)と名付けられた。

ダム湖(龍姫湖)湖畔の駐車場に車を停めて休んでいると、ようやく太陽が姿を見せ始める。

太陽の光を受けて明るくなってきた山を見ると、きれいに色づいていた。まだ、ほとんど色づいていない広島市内と違って、やはりこちらの紅葉は早いようだ。


温井ダム湖畔の駐車場space.jpg温井ダム 龍姫湖
左/温井ダム湖畔の駐車場  右/駐車場から見た龍姫湖
山はきれいに色づいているが、龍姫湖周辺はもう少しといったところか。下の道路にはクマ注意の看板も見られる。さすが県北だ。

紅葉はいいのだが、肝心のカメラの調子が悪く、オートフォーカスがまったく効かなくなってしまった。

私の腕で、手動でピントを合わせ続けるのは結構きつい・・・

ダム近くの駐車場にある石碑space.jpg龍姫湖の石碑のある駐車場から見た紅葉
左/ダム近くの駐車場にある石碑  右/龍姫湖の石碑のあたりから見た紅葉
ダムに降りるには、交差点を左折(ダムと反対方向)しなければならなかった。案内標識もないし、普通気付かないと思うんだけど・・・

ダムに降りる道が分からなくて歩き回って調べたり、少し苦労はしたけど、早朝の空気はおいしいし、鳥のさえずりも心地よい。

自然の中でゆっくりするのもいいもんだね。

近くから見た温井ダムspace.jpgダム近くで見たジョウビタキ
左/近くで見た温井ダム  右/駐車場でさかんにさえずっていたジョウビタキ
ジョウビタキがさかんにさえずっていた。秋が来たと実感する。

時間が早かったから、展望デッキには登れないし、ダムの内部の見学もできなかったけど、きれいな景色が見られたから、ダムに寄って正解だったかな。

温井ダム 管理棟space.jpg龍姫湖
左/温井ダム 管理棟  右/管理棟の前から見た龍姫湖
管理棟に描いてあるのは、マスコットキャラの龍姫さま。管理棟の前からは龍姫湖の方に降りることができる。

放流管の展示space.jpg放流管案内板
左/管理棟の前に展示してある放流管  右/放流管案内板
ダムの放流管は、厚さ2.5cm、直径3.7mもあるらしい。結構大きいんだね。


ダムが予想外に大きいのを見て、足がすくんじゃったけどね・・・

温井ダムspace.jpg道路にかかっている橋
左/温井ダム  右/来る途中に通った橋
左/龍姫湖側から見たのと違い、ダムがとても大きく見える。湖に隠れてないんだから、当たり前だけど・・・ 右/来る途中に通った橋ってあんなに高かったのね。帰りにまた通らねばならないかと思うとガクブルだ・・・




ルート




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大阪城

大阪城


仕事で使っている資格の中に、5年に1度の法定講習を受けなければならないものがある。

・・・というわけで、5年ぶりに大阪に行くことになった。一応、仕事で使っている資格なのに、交通費自腹で、年休をとっての受講というところが、私の会社での立ち位置を表している・・・・・

朝5時10分に家を出て、始発ののぞみに乗ったのだが、大阪に着いたのは7時30分。朝の通勤ラッシュに巻き込まれ、気分が悪くなってしまった。

満員電車なんて何十年かぶりなので、仕方ないよね・・・

環状線 森ノ宮駅で下車。会場のシティプラザ大阪まで歩いたのだが、途中に大阪城があるので、少しだけ見ていくことにした。

大阪城 一番櫓
大阪城一番櫓
南外堀から一番櫓を見たところ。江戸時代に再建された大阪城では、1番櫓から7番櫓まで建造されたが、明治維新の大火により、4番、5番、7番が失われ、第二次大戦の空襲により、2番、3番が失われて、現在は、1番櫓と6番櫓が残っているそうだ。


講習は朝9時からなので、あまり時間がない。噴水広場の前から南外堀を通って、大手門へと向かう。

大阪城 大手門space.jpg南外堀案内板
左/大阪城 大手門   右/南外堀案内板
大手門付近に南外堀の案内板が立っていた。案内板によると、石垣の総延長は約2km、堀の最大幅は約75mもあるらしい。最近は山城しか見てなかったから、こういう平城は逆に新鮮だなぁ・・・


大阪城 大手門へ
大阪城大手門付近
大手門へ渡る橋の上から。左に見えるのは千貫櫓。元和6年(1620年)、小堀遠州の設計、監督のもとに造られたもので、国の重要文化財。かつて、この地にあった石山本願寺を織田信長が攻めた際、この付近にあった隅櫓から飛んでくる横矢に悩まされ、「銭千貫文を出しても取りたい櫓だ」と言ったことから、後世に建てられたこの櫓に、千貫櫓という名前が付けられたそうだ。ちなみに、小堀遠州は備中松山城も修築した大名であり、茶人、建築でも有名な人。高梁市の頼久寺庭園は、彼が造ったといわれている。

多門櫓のある大手門をくぐって二の丸へ。最近、山城(しかも城跡・・・)しか見てなかったので、こんな大きな建造物はとても新鮮に見える。

大阪城 多門櫓space.jpg大阪城 多門櫓(二の丸の側から)
左/大阪城 多門櫓   右/多門櫓(中側から見た写真)
多門櫓は、寛永5年(1628年)に創建され、天明3年(1783年)に落雷で焼失したが、寛永元年(1848年)に再建されたものらしい。


南仕切門跡、太鼓櫓跡から、桜門を通っていよいよ天守閣へ。
大阪城 天守閣
大阪城 天守閣
今の天守閣は、1931年(昭和6年)竣工。昭和になって、各地で造られた復興天守の第一号。徳川時代の天守台の上に鉄骨鉄筋コンクリート構造で造られたもの。建物の外観は、大阪夏の陣図屏風をもとに設計されたものだそうだ。1995年(平成7年)から1997年(平成9年)にかけ、平成の大改修が行われ、美しく生まれ変わっている。豊臣時代の天守は32年、徳川時代の天守は36年で焼失しているので、今の天守が今までの天守の中で最も長命になっているらしい。

天守閣前には、城内で最も大きいといわれる蛸石があったり、大阪城には見どころがたくさんあるのだが、今回は時間がなかったので、ほとんど見ることはできなかった。

いつか、ゆっくり見て回りたいなぁ・・・(っていうか、年休3日申請したのに、1日以外却下ってどういうこと????)

蛸石space.jpg蛸石
左/蛸石  右/蛸石左側の染み
蛸石は大阪城再建工事の際、岡山藩主池田忠雄が備前国 犬島より運んだもの。推定重量 約130トン。石の左側に、蛸のような染みがあるので、蛸石と呼ばれているらしい。



★★★★★Data★★★★★★★★★★

1.お出かけした日: 2016年11月7日(月)
2.しんどいわポイント(しんどさを表わします):★★★★☆
(満員電車と講習で疲れた。講習は朝9時から17時まで。家を出たのは5時で、帰ったら20時30分。休みくれ、疲れるわっ!)
3.目的地までの所要時間(自宅~大阪城まで):3時間20分(新大阪~広島 341.6km)
4.走行距離:10,544歩( 徒歩7.6Km)
5.消費エネルギー:10,440円(電車代)+300.6Kcal(脂肪燃焼量42.9g)
6.地図はこちら


三次の彼岸花と安芸郡山城 ⑥

勢溜の壇(せだまりのだん)


本当はすべての郭を見て回りたかったのだが、雨が強くなってきたので仕方がない。

御蔵屋敷跡から尾崎丸を通る下山ルートを通って下山を開始した。
郡山城跡 地図
郡山城地図
登山口で配布している地図より。
安芸高田市観光ナビの観光パンフレットダウンロードページからダウンロードできます。

下山ルートの側には勢溜の壇(せだまりのだん)という郭があるので、少しだけ見学。


勢溜の壇 案内板space.jpg勢溜の壇
左/勢溜の壇 案内板   右/勢溜の壇
尾崎丸方面を守る大型の郭。広さ500~700㎡の郭が四段重ねになっている。右の写真は一番上の郭。写真で見ると、ただの林にしか見えないけど・・・

ここは、高さ1mくらいの段差のある広めの郭を四段にした郭で、本丸を守る兵士が待機していた場所らしい。

この郭は山道に沿って作られているので、尾崎丸を抜けて本丸へと向かう敵兵をここで殲滅する構造になっているのだろう。

満願寺跡


勢溜の壇から100mほど山を下ったところに満願寺跡への入口がある。

急いでいるのだが、資料館で見た石組の池跡を見たかったので、寄ってみることにした。

満願寺跡space.jpg満願寺跡案内板
左/満願寺跡   右/満願寺跡 案内板
案内板によると、満願寺は、天平12年(740年)行基が千手観音木像を彫刻してお寺を建て、木像を安置したことに始まるものと伝えられ、仏像は毛利氏の守護仏だったらしい。お寺は後に、毛利氏とともに広島、萩へと移転したが、現在は防府市内にあるそうだ。

ここにお寺があったとは信じられないくらい、どろどろにぬかるんだ敷地内を歩いていくと、端の方に池だか水たまりだか分からないものがあった。

どうやら、ここが蓮池跡らしい・・・

蓮池跡
蓮池跡
400年前は、ここに蓮の花が咲き乱れ、錦鯉が泳いでたりとかしてたのかな?
今では、端の方にわずかに残る石組がかろうじて池だった頃の面影を残している。

「昔の光今いずこ」ってやつかな・・・


妙寿寺曲輪跡


地図を見ると、満願寺跡のすぐ側に、妙寿寺曲輪という郭がある。

もうここまで来ると、ついでに寄ってみたくなるのが人間の性というやつだ。

湿地帯と化したお寺の跡を歩いていくと、石垣でもあったのだろうか、端の方には大量の石が転がり、2mくらいの急傾斜地に道が造られている。

ここを登ったところが妙寿寺曲輪のようだ。

満願寺跡space.jpg妙寿寺曲輪へ行く道
左/満願寺跡に落ちている大量の石  右/妙寿寺曲輪へ続く道
妙寿寺曲輪と満願寺の間には、2mくらいの段差がある。写真では分かりにくいが、油断すると滑り落ちるくらいの急傾斜だ。この高低差を生かしてここで敵を食い止めるつもりなのだろうが、普段の上り下りは大変そうだ。

雨で滑りやすくなった道をなんとか登り切ると、一面に木の生えた林が広がっていた。

案内板によると、ここが妙寿寺曲輪のメインの郭で、満願寺へと攻め込んだ敵を壁として防ぐ役割があったようだ。南側には帯状に郭が造られ、防御を固めるとともに、南側への通路としても使われていたらしい。

妙寿寺曲輪案内板space.jpg妙寿寺曲輪
左/妙寿寺曲輪案内板  右/妙寿寺曲輪
妙寿寺は、毛利隆元の夫人の菩提寺であったそうだ。お寺がどの辺にあったのかは分からないけど・・・
曲輪はすでに林と化しており、よく分からないのだが、ここが一番大きな郭のようだ。この下には帯曲輪が尾崎丸や本城(郡山城拡張前の本丸)方向に連なっており、本城や尾崎丸へ攻め寄せてきた敵を挟撃できるようになっているのだろう。


尾崎丸


妙寿寺曲輪から、満願寺跡へと戻り、再び下山を開始。

100mほど下ったところに、尾崎丸の案内板が立っていた。
尾崎丸案内板
尾崎丸 案内板
尾崎丸は、長さ42m幅20m、この曲輪群中最大の曲輪。隆元が尾崎殿と称されていたことから、隆元の居館があったと考えられているそうだ。

案内板によると、尾崎丸には毛利隆元の居館があったらしいのだが、案内板が立っている場所は、館を建てるにはどう考えても狭い。

満願寺 仁王門跡
満願寺仁王門跡
ここには、満願寺の仁王門が建てられていたらしい。戦争になると、仁王門を櫓として使う予定だったのかな?

おかしいと思ってよく見てみると、ここは満願寺の仁王門が建てられていた場所で、隆元の居館は、堀切を渡ったところにあったようだ。

尾崎丸 堀切
尾崎丸 堀切
尾崎丸の堀切。下の方までずっと続いているようだ。
深さは1m程度しかないが、おそらく埋まってしまったもので、当時は何メートルもあったのだろう。


本当は、堀切を渡って、尾崎丸を見てみたかったのだが、早く降りないとカメラが濡れてしまうので断念。

また今度来た時にでもゆっくり見ようかな。


展望台


尾崎丸から200mほど歩いたところに展望台があったので、しばし雨宿り。

郡山城 展望台
郡山城 展望台
2階建ての展望台。ふもとから見ると、毛利の一文字に三ツ星の家紋の垂れ幕が見えるのだが、あの垂れ幕は、この展望台にかけてある。
展望台で休んでいると、大きな牡鹿が鳴きながら走り去って行った。命を守るためとはいえ、すごい所に城を造るなぁ・・・

しかし、結局雨は止むことはなく、びしょ濡れになって帰る羽目になってしまった・・・

展望台から見た吉田の町
展望台から見た吉田の町
雨が降っているので、展望台の2階から見る気は起きなかった。どうせガスってよく見えないしね。

折角登ったのに、雨のせいでゆっくり見ることができなかったのがとても残念。

本城の本丸の方にも行ってみたいし、また機会があったら登ってみなくちゃね。



★★★★★Data★★★★★★★★★★

1.お出かけした日: 2016年9月25日(日)
2.しんどいわポイント(しんどさを表わします):★★★☆☆
3.目的地までの所要時間(自宅~吉舎町辻まで):1時間36分(79km)
4.走行距離:166Km(自家用車) +11,221歩( 徒歩8.1Km)
5.消費エネルギー:ガソリン8.3ℓ(ガソリンはリッター20Kmで計算)+330.7Kcal(脂肪燃焼量47.2g)
6.地図はこちら




三次の彼岸花と安芸郡山城 ⑤

本丸への道


元就公の墓所から本丸跡へは800m。案内板に、登城口ではなく、登山口と書いてあるあたり、とても嫌な予感がする。

元就公の墓所の裏にある嘯岳禅師の墓までは石畳だったのに、その先は山道っぽくなっていく。

嘯岳禅師の墓space.jpg嘯岳禅師の墓 案内板
左/嘯岳禅師の墓   右/嘯岳禅師の墓 案内板
元就公が度々吉田に招いたという嘯岳禅師は、元就公の葬儀の導師を務め、菩提寺である洞春寺を開山した。


嘯岳禅師の墓に至る道space.jpg次第に山道へ
左/嘯岳禅師の墓までの道   右/嘯岳禅師の墓を過ぎたあたり
嘯岳禅師の墓くらいまではとてもきれいに整備されている。が、そこを過ぎると、次第に山道っぽくなっていく・・・

普段、歩くことすらほとんどない私にはとても辛い。山登りは趣味じゃないんだけど・・・・

本丸への道space.jpg本丸への道
本丸への道
整備されており、道に迷うことはないが、もはや完全に山道。
800mなんて大したことないと思う人もいるかもしれないが、平地を歩くのと違って山道の800mはかなりきつい。

歩き始めて10分。開けたところが見えたので、もう着いたのかと思いきや、まだ半分も登っていなかった・・・

郡山城登山道space.jpg郡山城 登山道
本丸への道
登る前から曇っていた空は鉛色となり、今にも雨が降り出しそうになっている。天気が良かったら、吉田の町がきれいに見えるんだろうけど・・・

登り始めて20分。ようやく本丸近くにある御蔵屋敷跡に到着。ここで一息入れたかったのだが、最悪なタイミングで雨が降り始めた。

早く降りなくちゃ。

本丸付近の道space.jpg御蔵屋敷跡案内板
左/本丸付近の山道  右/御蔵屋敷跡
御蔵屋敷前の道。とても本丸付近の道とは思えない、普通の山道。昔はきれいに整備されていたのだろうか?

御蔵屋敷跡


御蔵屋敷跡は、二の丸の西側に位置する郭で、もともとは兵糧蔵があったと伝えられている。

たくさん転がっている石は、もともと石垣だったもの。一国一城令もあるのだが、島原の乱の後、一揆軍に利用されるのを恐れて完全に破却されたそうだ。

御蔵屋敷跡
御蔵屋敷跡
兵糧蔵跡と伝えられる。面積は600㎡。写真右側が、御蔵屋敷東側で、たくさんの石が落ちている。島原の乱で、廃城になっていた原城を一揆軍が利用したことから、ここも一揆軍に利用されないように完全に壊してしまったらしい。

三の丸跡


御蔵屋敷跡から、本丸を目指し、とりあえず三の丸方面へと向かってみる。

三の丸は、城内最大の郭で、ここに残る石垣は、比較的昔の面影をとどめているらしい。

素人目にはとてもじゃないが、石垣跡には見えないんだけど・・・・

三の丸石垣space.jpg土塁跡
左/三の丸石垣   右/三の丸 土塁跡
昔の面影を残す石垣跡。・・・らしいんだけど、素人目には石垣跡にはとても見えない。広大な三の丸は、いくつかの土塁と石塁、石垣などで区分けされていたようだ。

二の丸跡


三の丸から一段上がったところが二の丸だ。

案内板によると、東西36m、南北20mの広さがあったそうだ。

三の丸から二の丸への通路space.jpg二の丸案内板
左/三の丸から二の丸への通路  右/二の丸 案内板
三の丸から二の丸への通路?通路って感じじゃないんだけど・・・本当に門があったのだろうか???

二の丸跡
二の丸跡
周囲を高さ50cm、幅1mの石垣や石塁で、27mと15mの方形に区画されていたらしい。

本丸跡


二の丸から、石列で画された通路を通って上に上がったところが本丸跡。城主の館があり、元就公やその孫の輝元らが住んでいたらしい。

二の丸から本丸への石列space.jpg本丸案内板
左/二の丸から本丸への通路 石列が残っている   右/本丸跡案内板
本丸は一辺が約35mの郭で、山頂部に位置する。標高は389.7mで、比高は約200m。城主の館があったとされ、江戸時代に書かれた絵図には、三層の天守閣が描かれている。元就や輝元が居住していたらしい。

本丸跡
本丸跡
本丸跡。天守閣があったかどうかはわからないが、城主の館はあったらしい。元就は75歳まで生きたようだけど、こんな山の上に住むのは結構大変だったんじゃないかな?

本丸跡から、一段高くなった所(長さ23m、幅10m)が櫓台跡で、どうやらここが山頂部のようだ。

櫓台へ上がる道space.jpg櫓台跡
左/櫓台に登る道  右/櫓台跡
本丸から一段高くなったところが櫓台。

櫓台跡からは、本丸跡、二の丸跡などがよく見える。

ここにどんな櫓が建っていたのか、想像して一人楽しんでいたのだが、雨がだんだんと強くなってきて洒落にならなくなってきた。

櫓台からの眺め
櫓台からの眺め
本丸跡、二の丸跡がよく見える。ここにはどんな櫓が建っていたのだろうか。仮設づくりの井楼櫓なのか、それとも江戸時代にかけての城なので、土蔵造りの立派な建物だったのか?

もともとヒガンバナを見に行ったついでに寄っただけなので、雨具はおろか、山歩き用の装備は何一つ持っていない。

折角ここまで登ってきたのにとても残念だけど、早く降りなくちゃね・・・



三次の彼岸花と安芸郡山城 ④

毛利元就公墓所


参道入口から300m。きれいに舗装された道を歩いて登ると、元就公の墓所に到着する。
毛利元就公墓所
毛利元就公墓所
お墓までの道はきれいに舗装されている。とても歩きやすい道なので、足の悪い人でも大丈夫だろう。城跡に興味のない人はここまで来るだけでいいかもしれない。

元就公の墓所は、元就公の菩提寺であった洞春寺(とうしゅんじ)というお寺の跡に造られたもので、お城の郭のように三段に分かれた造りになっている。

洞春寺案内板space.jpg元就公墓所 一番上の段に続く階段
左/洞春寺跡案内板   右/一番上の段に続く階段
洞春寺(とうしゅんじ)は、元就の孫である輝元が造ったお寺。広島城移城に伴い、広島城下へと移った後、毛利の転封に伴い、萩へと移ったらしい。もみじがきれいだったから、紅葉の季節にはいいかも。

元就公の墓は、その一番上の段に建てられているのだが、墓標代わりに「ハリイブキ」という木が植えられているのが特徴的だ。

元就公墓所space.jpg元就公墓所
左/元就公墓所 遠景   右/元就公墓所 中の様子
お墓には、もう枯れてしまっているが、墓標がわりに「ハリイブキ」の木が植えられている。「ハリイブキ」というのは、園芸種の「イブキ」と少し違い、針状の葉を持つ、日本では珍しいものらしい。他の方のブログで読んだのだが、篠原起昌氏の「毛利元就とハリイブキ考」という本に書いてあるらしいので、暇になったら図書館に行って読んでみなくては。


元就公のお墓と同じ段には、「百万一心」という石碑も建てられている。

この石碑は、城の工事の際、人柱の代わりに「百万一心」と書いた石を埋めたところ、工事が無事に終わったという伝説を伝えるために、昭和6年に作られた石碑である。

この「百万一心」だが、「一日・一力・一心」とも読めることから、有名な「三矢の訓」とともに、皆が力を合わせることの重要性を説いたものだと言われている。

百万一心の碑
百万一心の碑
「百」を分解して「一日」と読み、「万」を分解して「一力」と読むことができる。「日を一にし、力を一にし、心を一にすれば、何事も成功するのだ」と、皆で協力することの大切さを説いているらしい。「三矢の訓」(矢は一本だと折れるけど、三本まとまると折れないという、有名な話)と似た感じの話。

まぁ、どちらも伝説ではあるんだけど・・・

百万一心の碑 解説の碑
「百万一心」解説の碑
文化13年(1816年)、長州藩士の武田泰信が郡山城に登った際、姫の丸で「百万一心」と書かれた大きな石を発見して文字を写し取って帰り、山口の豊栄神社に奉納したといわれている。ただし、肝心のその石は、いまだに見つかっていない。
「百万一心」の大石を人柱の代わりに埋めることで、人柱にされそうになった娘を助けたという話といい、少し胡散臭さを感じてしまうのは、私の心が汚れているせいなのか?

この伝説の真偽のほどは定かではないが、一族の内紛で自滅の道を歩んだ尼子氏のことを思うと、皆が力を合わせることは大事なのかなと思ったりもする。

力を合わせる友達も家族もいない自分には、あんまり関係ないけど・・・


毛利元就公墓所


元就公の墓の一つ下の段には、毛利一族のお墓が建てられている。これは、明治時代に、各所にあった一族のお墓をまとめたものらしい。
毛利一族の墓案内板
毛利一族の墓所 案内板
明治時代に、各所にあったお墓を一か所にまとめたもの。明治維新の立役者となった長州藩には、藩主である毛利の歴史を整え、自分たちの正当性をアピールする必要があったようだ。
少し胡散臭い伝説も、彼らによって作られたのかもしれない。

案内板によると、左から元就の兄である毛利興元(おきもと)、その息子の幸松丸(こうまつまる)、尾崎局(隆元夫人)、先祖合葬の墓が並んでいるようだ。

毛利一族の墓
毛利一族の墓所
元就の兄 興元は、酒毒により25歳の若さで急死。元就が後見人となり、まだ2歳であった幸松丸が跡を継いだ。
その後、幸松丸が9歳で急死し、重臣たちの推挙という形で元就が毛利家を継ぐこととなった。
幸松丸は、鏡山城の戦いで無理やり首実検をさせられ、それがトラウマになって死亡したと伝えられている。ただ、元就に暗殺された可能性も否定はできない。


お互い、仲が良かったかどうかは分からないから、一緒に葬られるのもどうかなと思わなくはないんだけどね。



プロフィール

しんどいわ太郎

Author:しんどいわ太郎
いろいろあって、ブログの更新どころか、ネットを見ることすらできずに数か月経ってしまった。
早く書かないと1年遅れになっちゃうよ・・・

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