FC2ブログ

鞆の浦④

太田家住宅

太田家住宅は常夜燈のすぐ近くにある。

太田家住宅
太田家住宅

太田家住宅は、もともと鞆の浦名物の保命酒(ほうめいしゅ)を考案し、江戸時代に福山藩から専売権を与えられていた中村家の住宅であったものを、廻船業を営んでいた太田家が引き継いだものである。

保命酒
お土産に買った保命酒。16種類の漢方薬を使って醸造した薬酒。養命酒と似た感じ。

入館料は400円と少し高めで、中は写真NGなのだが、中に入ると上品そうな奥さんが丁寧にガイドをしてくれる。

外からは分かりにくいが、中には沢山の蔵と茶室をはじめとする多くの部屋、情緒のある中庭があり、驚くほど広い。
江戸時代には、長州藩をはじめとする西国大名の参勤交代の宿所としても使われていたという。

この太田家住宅(旧中村屋)は、御手洗の七卿落遺跡と同様、三条実美らが宿泊した場所として鞆七卿落遺跡と呼ばれ、広島県の史跡に指定されている。

七卿落遺跡の案内板
七卿落遺跡の看板 三条実美は中村屋で保命酒を飲み、保命酒を讃える歌を詠んでいる。「世にならす 鞆の湊の竹の葉を かくて嘗むるも めずらしの世や」(竹の葉というのが保命酒のこと)

御手洗のところでも書いたが、七卿落ちとは、1863(文久3)年8月18日の政変で公武合体派により失脚させられた尊王攘夷派の公卿のうち、三条実美など七卿が長州に落ち延びた事件である。

太田家に立ち寄ったのは、その翌年、京都の状況が好転したとして上京を図る途中、1864年の7月18日から20日のことであったという。

その後、多度津まで進んだ一行は長州藩が蛤御門(はまぐりごもん)の変に敗れたことを聞いて再び長州にひきかえしていったのである。

一行がくつろいだという大広間は今もその当時のまま残っているが、中は白壁から反射された光でとても明るく、高い土塀に囲まれているとは思えないほど風の通りがよくてとても居心地のいい場所だった。

写真が撮れなかったのと、ゆっくり座ってくつろげないのが残念だったけど・・・


いろは丸展示館

いろは丸展示館は、常夜燈の傍にある、江戸時代に建てられた蔵を利用して作られた博物館。

いろは丸展示館
いろは丸展示館。地元では「大蔵」と呼ばれる江戸時代の蔵を利用して作られている。建物自体が登録文化財!写真撮影OKなのも嬉しい。

ここでは、1867年(慶応3年)4月23日深夜に紀州藩の軍艦 明光丸に衝突され、鞆の浦に向けて曳航される途中で鞆の浦の沖合い 宇治島付近に沈んだ 蒸気帆船 いろは丸に関する資料が展示されている。

いろは丸の模型space.jpg回収された品々
沈没したいろは丸の模型と回収された品。いろは丸は大洲藩(現在の愛媛県の一部)の所有で、海援隊が1航海15日、500両で借りたそうだ。

明光丸は887トン、幅9.1m、全長76.4mの紀州藩の軍艦で、対するいろは丸は160トン、幅5.5m、全長54.5mの船。大洲藩の所有で、坂本龍馬率いる海援隊が借り受け、長崎から銃火器や金塊を大阪に向けて輸送中に事故にあったという。

いろは丸には坂本龍馬をはじめとする海援隊の隊士らが乗っていたが、全員救助され鞆の浦に上陸。龍馬は枡屋清右衛門宅に宿泊し、魚屋萬蔵宅や対潮楼などで紀州藩側と談判したがまとまらず、長崎に向けて出向した明光丸を追って長崎に行き、徳川御三家のひとつ紀州藩と争った。

旧魚屋萬蔵宅
旧魚屋萬蔵宅 現在は宮崎駿監督がデザインしたという「御舟宿いろは」というお店になっている。

衝突の原因や責任については、現在でも諸説あるが、衝突時に明光丸の甲板に士官がいなかったこと、明光丸が二度にわたっていろは丸に衝突し、沈没の原因をつくったことなどから紀州藩が過失を認め、多額の賠償金(支払われたのは7万両 現在の価値で30~40億円くらい)が支払われたという。

館内には、いろは丸事件の事故の経緯や、坂本龍馬らの事故後の交渉などの資料の他、水中調査をしたときの映像やジオラマの展示がある。

いろは丸水中調査時のジオラマ
水中調査時のジオラマ 龍馬が載せていたと主張していた鉄砲や金塊は見つかっていない。龍馬のはったりだったのかな?

二階には龍馬が宿泊したという枡屋清右衛門宅の隠し部屋の再現モデルまである。

龍馬が泊まったという隠し部屋の再現モデル
龍馬が泊まったという隠し部屋の再現モデル 暗殺を恐れた龍馬は隠し部屋に泊まっていたという。紀州藩という大きな藩を相手に暗殺の危険も顧みず一歩もひかなかった龍馬はやはりすごいと思う。ちなみに、この事件の半年後に龍馬は京都の近江屋で暗殺されている。

館内には、坂本龍馬といろは丸に関する資料が、漫画やイラストも交えて非常に分かりやすく展示してある。龍馬ファンでなくてもおすすめの施設だ。


枡屋清右衛門宅

坂本龍馬は、鞆の町には一週間足らずしかいなかったが、鞆の浦でも坂本龍馬の人気は高いらしい。

公園にはいろは丸の遊具があり、仙酔島への渡船として平成いろは丸というのが活躍している。

いろは丸の遊具space.jpg平成いろは丸
左/いろは丸の遊具 右/平成いろは丸 渡船乗り場では雁木が活躍している・・・

私は別に龍馬ファンではないのだが、坂本龍馬が泊まったという枡屋清右衛門宅は楽しみにしていた。

なぜかというと、私は隠し部屋とか、どんでん返しとか、そういうのが大好きだからだ。

枡屋清右衛門宅は対潮楼のすぐ北側にある。

旧枡屋清右衛門宅
旧枡屋清右衛門宅 廻船問屋を営んでいた商家。大洲藩とつながりが深かったそうだ。当時は海に面しており、紀州藩の攻撃時、海から脱出できるようにという配慮で宿舎に選ばれたようだ。

中に入ると商家らしく、広い土間と番頭さんが座っていたのだろうと思われる小部屋がある。

旧枡屋清右衛門宅
土間に面した小部屋。龍馬に関する資料が展示してある。

そこから窓のない小部屋(廊下?)を歩いていくと火鉢や箪笥の置いてある小部屋があり、そこにはしごがかかっていた。

旧枡屋清右衛門宅space.jpg旧枡屋清右衛門宅
左/窓のない小部屋(廊下?)ここにも龍馬に関する資料が展示されている。  右/隠し部屋につながるはしごのある部屋。写真右側がそのはしご。左に少し見えるのは観光客用につけられた階段。

はしごの先を見ると、天井板が上に跳ね上げられる仕組みになっているのがよく分かる。

隠し部屋につながるはしご
隠し部屋につながるはしご。昔の商家には、秘密の商談をするために隠し部屋が作ってあったらしい。天井板を元に戻してはしごを取ると隠し部屋があることにはまず気づかない。

上に登ると、さらに階段があり、階段を登ったところに隠し部屋へつながる下りの階段が作られている。

はしごを登ったところにある上りの階段space.jpg隠し部屋space.jpg隠し部屋の手前
左/はしごを登った所にある上りの階段 中/いったん登った所から左に下ると隠し部屋へ行ける 右/はしごを上ったところから右は行き止まり。屏風が飾ってある。 階段を登ったり降りたりするところなんて雰囲気たっぷりだ・・・

隠し部屋は窓があり、なかなか居心地がいい感じだ。文机には、龍馬が京都の寺田屋の女将 お登勢にあてた手紙が展示してある。

隠し部屋space.jpgお登勢に宛てた手紙
左/隠し部屋 居心地よさそう。ここにひきこもれたらどんなに幸せだろう・・・ 右/お登勢にあてた手紙 いろは丸事件により、京都に行けなくなった事を告げたもの。龍馬は才谷梅太郎の名を使っている。

隠し部屋から再び下に降りると、きれいな中庭と座敷があり、座敷には坂本龍馬や江戸時代の鞆の町に関する資料が展示してあった。

きれいに復元された中庭space.jpg床の間のある広い部屋
左/きれいな中庭  右/床の間のある広い部屋。海援隊士たちは、ここに泊まったのかな?

あまり大きな建物ではないが、昔の商家の暮らしぶりがよく分かる建物だ。

特に隠し部屋は龍馬や商人の密談の様子まで想像させてくれる。本当に貴重な文化遺産だと思う。



鞆の浦の町をほぼ一周したが、思っていたよりずっと小さな町だった。

開発の波から取り残された感のあるこの町が、昔は港として栄え、大伴旅人、足利尊氏や坂本龍馬、毛利輝元、山中鹿介など多くの歴史上の人物が訪れたというのはほんとうに想像もできない・・・・(山中鹿介は首だけだけど・・・)

しかし、近年は古い町並みが評価され、映画や時代劇、アニメの舞台としても鞆の浦の町が登場しているようだ。

圓福寺
圓福寺 大可島城跡に建つ。いろは丸事件では紀州藩の宿舎とされた。この近くの一軒家を借りて宮崎駿監督は「崖の上のポニョ」の構想を練ったという。「崖の上のポニョ」には、鞆の浦らしい景色が沢山出てくるらしい。

この町の港には橋をかける計画があり、この町が今後どう変わっていくかは分からないが、歴史的な遺産は大切に守って欲しいと思う。



★★★★★Data★★★★★★★★★★

1.お出かけした日: 2014年6月15日(日)
2.しんどいわポイント(しんどさを表わします):★★★★☆(歩きすぎた・・・)
3.目的地までの所要時間:2時間
4.走行距離:210Km +20520歩( 徒歩14.8Km)
5.消費エネルギー:ガソリン10.5ℓ+ 548.7Kcal (ガソリンはリッター20Kmで計算)
6.地図はこちら
7.行きは高屋ICから福山西ICまで高速利用。帰りは下道のみ(2時間30分かかった)





スポンサーサイト



鞆の浦③

福禅寺 対潮楼

福禅寺は、平安時代 天暦年間(950年ごろ)空也上人の創建と伝えられる真言宗のお寺(創建時は天台宗)。

福禅寺
崖下の県道から見た福禅寺 昭和30年代に埋め立てられる前は海だった。

本堂に隣接する対潮楼は、江戸時代の元禄年間(1690年ごろ)に創建された客殿で朝鮮通信史(朝鮮からの使節団)3役の迎賓館としても使われている。

対潮楼からの景観はすばらしく、1711(正徳元)年、従事官 李邦彦(イ パンオン)は、そこからの眺望を「日東第一形勝」(朝鮮より東で一番美しい景勝地)と賞賛し、書を残している。

日東第一形勝の書と対潮楼からの眺め
日東第一形勝の書と対潮楼からの眺め

今は対潮楼の下には県道22号が通って、そこに建てられた建物が見えるが、江戸時代は海に突き出した建物だったので、波の打ち寄せる景観を楽しめたに違いない。

対潮楼から見た弁天島と平成のいろは丸
対潮楼から見た弁天島と平成のいろは丸

対仙酔楼

対潮楼のすぐそばに、かつての豪商大阪屋の建てた「対仙酔楼」という建物がある。

対仙酔楼
対仙酔楼

江戸時代後期の儒学者で歴史家でもあった頼山陽が「対仙酔楼」と名づけ、書を残しているという。

頼山陽は、ここから見える景色を「山紫水明処」と描写し、熟語の語源となったとされている。

今は中は非公開だけど、機会があれば見てみたいな。


淀媛神社

眺めが良いと噂の医王寺へ行きたかったのだが、医王寺への登り道が分かりにくくて通り過ぎてしまったので、そのまま淀媛神社まで歩いた。

淀媛神社は、三韓征伐を行った神功(じんぐう)皇后の妹君である淀姫(虚空津姫命(こくつひめのみこと))を奉った神社である。

淀媛神社 拝殿space.jpg淀媛神社 鳥居前の百度石
左/淀媛神社 淀姫は、三韓征伐より凱旋のとき、渡守神社(現 沼名前神社)の祭主となったのだという  拝殿  右/淀媛神社 鳥居前の百度石 なぜか狛犬がじゃれついている・・・

鞆の港を守る淀媛神社の本殿前からは、港が良く見える。

鞆の港space.jpg淀媛神社(恋みくじ)
左/鞆港(大可島付近)  右/淀媛神社鳥居前の恋みくじ 隕石が落ちたらしい。

淀媛神社付近には隕石が落ちたらしく、「星の浦」という地名も残っているらしい。そこにはなぜか恋みくじというのがあった。

隕石のようにがつーんと出会いがあるということなのか?

ちなみに私は中吉でした。

医王寺

少し戻って医王寺へと向かう。医王寺は焚場(たでば)跡付近にある狭い路地を山に向かって登っていったところだ。

入り口はとても分かりにくい・・・

途中には平賀源内の生祠(せいし)があった。

医王寺への登り道space.jpg平賀源内 生祠
左/医王寺への登り道 右/平賀源内 生祠 生祠とは生きているうちに神として祀ること。長崎の帰りに鞆の浦の溝川家に立ち寄り、陶土を見つけて源内焼きの製法を伝えた平賀源内を溝川家が祀ったものである。

坂を登っていったところにはわらじの吊り下げてある仁王門があり、その先に医王寺があった。

医王寺 仁王門space.jpg医王寺 仁王門
医王寺 仁王門 なぜかわらじが吊り下がっている

本堂の裏に太子殿(たいしでん)への登り口があったので、早速登ってみた。

医王寺 鳥居space.jpg医王寺 太子殿への登り口
左/医王寺 本堂と鳥居   右/太子殿への登り口

太子殿への道は予想以上に厳しかった・・・

山の中の階段を登ること10分。ようやく開けた場所に出たと思ったら、ただの休憩所だった・・・

太子殿への階段space.jpg太子殿途中からの眺め
太子殿への階段と途中での風景。休憩所といってもベンチがあるだけ。自販機もありません。

そこから山を登ることさらに10分。ようやく太子殿に到着・・・・ 階段は500段もあった・・・・・

医王寺 太子殿
医王寺 太子殿

景色はきれいだったけど、帰りも同じ道を歩くのかと思うとちょっと憂鬱・・・

医王寺 太子殿からの眺望space.jpg医王寺 太子殿からの眺望
医王寺 太子殿からの眺望


ダイエットにはいいかも・・・・


※ 地図はこちら

鞆の浦②

港湾施設は一通り見たので、しばらく町をぶらつくことにした。

鞆の浦歴史民族資料館

鞆の町の中心部に小高い山がある。
かつて、初代広島藩主 福島正則が築いた鞆城の跡だ。

鞆城跡への階段space.jpg鞆城本丸の石塁space.jpg鞆の浦歴史民族資料館
左/鞆城跡への階段 結構きつい・・・中/鞆城本丸の石塁の一部 右/鞆の浦歴史民族資料館

鞆城は、もともと毛利元就の築かせた「鞆要害」を大規模な城にしたものだったが、その存在を知った徳川家康の怒りに触れて取り壊され、以後は奉行所が置かれたという。

今では鞆の浦歴史民族資料館が建っており、鞆の浦の歴史や鞆の人々の暮らしなどに関する資料が展示されている。

観光前にチェックしておくといいかも知れない。写真はNGだけどね・・・・

ささやき橋

鞆の町には沢山の寺社があるが、、鞆城跡の西側にほぼ一列に並んでいる。

初代広島藩主 福島正則が鞆城を築いたときに寺町として整備されたものらしいが、そのうちの一つ静観寺(じょうかんじ)の前に「ささやき橋」という橋がある。

1mもない橋だが、これには悲恋の伝説があるという。

ささやき橋space.jpgささやき橋
ささやき橋 当時 このあたりは海で、中州をつなぐ橋があったという

応神天皇の頃(4世紀後半頃)、百済よりの使節の接待役 武内臣和多利(たけのうちのおみわたり)と官妓 江の浦(えのうら)は、役目を忘れ夜毎この橋で恋を語り合っていた。それが噂になってふたりは海に沈められ、その後、その橋を密語(ささやき)の橋と呼ぶようになったというのだ。

昔の人は恋愛をするのも命がけだったのかな?

山中 鹿介 首塚

ささやき橋のすぐ側に>山中 鹿介(やまなかしかのすけ)の首塚がある。

山中 鹿介首塚
山中 鹿介 首塚 胴塚は、岡山県の阿井の渡にある。

山中 鹿介は、山陰地方を治めていた戦国大名 尼子(あまご)氏の家臣で、毛利氏に滅ぼされた尼子家再興のため、毛利に挑み続けた武将である。

「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈ったという逸話でよく知られている。

尼子家再興を期して織田信長の下で働き、豊臣秀吉の中国攻めの先兵として上月城を攻略した山中 鹿介だったが、毛利氏の反撃に会い、秀吉が救援部隊を撤退したことから毛利氏に降伏して捕らえられた。

山中 鹿介は、毛利輝元の下へ護送される途中、岡山県の高梁市にある阿井の渡(あいのわたし)で毛利氏に謀殺されてしまったのだが、その際に切り落とした首が首実検(首が本物かどうか確かめること)のために鞆に送られてきたというのだ。

当時、静観寺には、織田信長に京を追われて「鞆要害」に本拠を移していた室町幕府の将軍 足利義昭がいたからである。

鹿介の首塚はかなり立派なものだが、首と胴体が遠く離れた場所に葬られているというのも少し気の毒な気がする。

沼名前神社(ぬなくまじんじゃ)

沼名前神社は、地元の人からは「祇園さん」と呼ばれ、親しまれている神社。

沼名前神社space.jpg沼名前神社 拝殿
左/沼名前神社 鳥居 形が変わっている。笠木の両端に「鳥衾(とりぶすま)」が付く肥前鳥居の特徴を持つ。  右/沼名前神社 拝殿 かなり立派な建物。

沼名前神社には、大綿津見命(おおわたつみのみこと)を祀る「渡守(わたす)神社」と、須佐之男命(すさのおのみこと)を祀る「祇園宮」が一緒にまつられている。平安時代の延喜式にも記載されている由緒正しい神社で、京都の八坂神社はこの祇園宮から移されたものだという。

ここには、重要文化財に指定された能舞台がある。

沼名前神社 能舞台
沼名前神社 能舞台 屋根はこけら葺 床下には音響を良くするために備前焼のつぼが置かれているという。

組み立て式で、戦場にも持っていけるようになっているらしい。秀吉が愛用して伏見城にあったものを、初代福山藩主 水野勝成が二代将軍 徳川秀忠より拝領したものだという。

残念ながら、雨戸(?)が立てられていて舞台は見えない・・・機会があれば一度見てみたいな。


安国寺

沼名前神社から少し北に歩くと安国寺という寺がある。

安国寺は、南北朝時代に足利尊氏、直義(ただよし)兄弟が日本各地につくらせたお寺である。といっても、ここ、備後安国寺は、鎌倉時代に作られた金宝寺というお寺を修理して「安国寺」としたものらしい。

安国寺 山門space.jpg阿弥陀三尊像
左/安国寺山門  右/阿弥陀三尊像 鎌倉時代のもので、国の重要文化財に指定されている。胎内には、経巻、念仏記、勧進帖、願文、袈裟、横笛、短刀、漆塗箱、数珠など12件20点が入っていたそうだ。 その前にいるお坊さんの像が法燈(ほっとう)国師坐像で同じく国の重要文化財に指定されている。法燈(ほっとう)国師は、備後安国寺のもとになった金宝寺の創建者だそうだ。

もともと、室町幕府を開いた足利家と鞆の浦との縁は深い。

鎌倉幕府を倒し、建武の新政を行った後醍醐天皇と対立し、楠正成、新田義貞らの軍に敗れて九州に落ち延びた足利尊氏は、鞆の小松寺で光厳上皇の院宣を得て京に再び攻め上っていった。その後の南北朝時代には、南朝と北朝の軍が鞆の町たびたび戦をしている。

そして、室町幕府の15代将軍 足利義昭は織田信長に京を追われ、毛利氏の援助を受けて鞆城のもとになった「鞆要害」を本拠地とし、鞆幕府と呼ばれた。

「足利(室町幕府)は鞆で興り鞆で滅びた」と幕末の歴史家 頼山陽が喩えた由縁である。

安国寺本堂跡space.jpg枯山水庭園
左/安国寺本堂跡  右/枯山水庭園

釈迦堂の裏に枯山水の庭園があるというので行ってみた。そこには、かつての本堂の跡と庭園があった。

県の史跡の枯山水の庭園というので、白砂の敷き詰められた庭園を想像していたのだが、砂もなく、雑草が生えてかなり荒れた感じだった。

かつての賑わいを失ったこの小さな町では、文化遺産を守っていくというのもなかなか難しいものなのかもしれない。



※地図はこちら

鞆の浦①

鞆の浦

前の日から晴れたので鞆の浦に行くことにした。

御手洗に行ったときから、同じ潮待ちの港である鞆の浦に来てみたかったのだが、ようやく訪れる機会が得られた。

鞆の浦のシンボル常夜燈と雁木
鞆の浦のシンボル 常夜燈と雁木

御手洗は航海技術が進んで「沖乗り」と呼ばれる航路が取られるようになる江戸時代中頃から発展した港町であるのに対し、鞆の港は「地乗り」と呼ばれる沿岸航路をとっていた時代から港として栄えた町である。

瀬戸内海では満潮時に豊後水道や紀伊水道から潮が流れ込んで鞆の浦沖でぶつかり、逆に干潮時には鞆の浦沖を境にして東西に分かれて潮が流れ出していく。

今の船のように動力を持たない昔の船は、鞆の港で潮の流れが変わるのを待ち、潮の流れを利用して航行する必要があったため、鞆は古代から港として栄えたのである。

そのため、町には古くからの言い伝えや歴史的建造物が多数残っている。

駐車場の近くに万葉集の歌碑があった。奈良時代にはすでに港があったのだろう。

むろの木の歌碑
730年、大伴旅人(おおとものたびと)が亡き妻を想い歌った歌。万葉の時代から港として利用されていたことが分かる。 「吾妹子之 見師鞆浦之 天木香樹者 常世有跡 見之人曽奈吉(吾妹子(わぎもこ)が見し鞆の浦のむろの木は常世(とこよ)にあれど見し人ぞなき)」と書いてある。「大宰府に行くときに私の妻が目にした鞆の浦のむろの木は今も変わらずにあるが、それを見た妻はもう亡くなって今はいなくなってしまった。」という、妻を失った悲しみを込めて歌った歌である

早速、海岸沿いを歩いてみた。

海岸沿いには大規模な雁木とその向こうに常夜燈が見られた。「浜の大雁木」というらしい。

浜の大雁木space.jpg雁木と常夜燈
浜の大雁木((雁木とは、潮の満ち引きに関係なく荷卸し等ができるように作られた階段状の構造物である) 1811(文化8)年に涌出岨(わくでそ)を埋め立てた際に造られたものだという。これだけ大規模な雁木が見られるのは鞆の浦だけになったそうだ。

雁木の側に小さな社があり、そこに力石というのがあった。

雁木の側の小さな社space.jpg鞆の津の力石
小さな社とそこにあった力石(重さ140~200kg)  私の力では動きそうにない・・・

江戸時代、船の荷揚げに従事していた仲仕(なかし)たちが、祭礼の場などでこの力石を持ち上げ、力と技を競ったものだという。港町の活気が伝わってくるようだ・・・

少し歩くと常夜燈にたどり着く。この常夜燈は、1859(安政6)年に西町の人々によって寄進されたものだという。

常夜燈space.jpg常夜燈
常夜燈 高さ5m以上ある。南面に「金毘羅大権現」、北面に「当所祇園宮」の石額が掲げられている。どちらも海上安全の神様

常夜燈は、町から離れた波止の突端にあるものと勝手に想像していたのだが、町からすぐのところというか、ほとんど町中に建てられていたのが意外だった・・

町をぶらつきながら、大可島(たいがじま)の下にある大波止へ向かった。

鞆の町並み
鞆の町並み 港の中心地 西町の町並み 道は狭いが、貴重な町屋が残る。

大波止は台風などの強風による大波から船を守るため、1791(寛政3)年に大可島下から50間(約90m)、淀媛神社下から20間(約36m)の波止が作られ、1811(文化8)年に播州高砂の工楽松右衛門により大規模修理と延長が行われて今の80間(約144m)になったらしい。

大波止space.jpg船番所跡
左/大波止 かつてはここの先端にも常夜燈があったという。  右/船番所跡 ここから港に出入りする船を見張っていたのだろう。

大波止の根元部分、大可島の崖に船番所の跡が残っている。船番所は港を出入りする船の出入りや安全を管理するために江戸時代の初めに、最初の鞆奉行・萩野新右衛門重富によって造られたものだという。

建物は大正時代に立て替えられたという個人所有の民家だが、立派な石垣に当時の面影を見ることができる。

鞆の浦には他にも「焚場(たでば)」というものが残されている。

木造船の船底に付着したフジツボやフナ虫などを焼き払い、乾燥させて船命を長らえさせるもので、船体の修理も行われた、今でいうドックのようなものらしい。

鞆の浦は、江戸時代の「常夜燈」、「雁木」、「波止場」、「焚場」、「船番所」の全てが全国で唯一残っている場所だという。

鞆城跡から見た鞆の港
鞆城跡から見た鞆の港  波止により、2重3重に守られているのが分かる

1000年以上にわたり、港湾都市としての繁栄を誇った鞆の町だが、技術の進歩により潮待ちの港が必要なくなってきたこと、交通の中心が汽車や自動車に移り、それらと接続容易な尾道などに物流の拠点としての地位を奪われていったことにより、近代化の波から取り残されてしまう。

しかし、そのお陰で貴重な文化遺産といえる町並みが残ったのだと思うと、ちょっと複雑な気分である。



地図はこちら


プロフィール

しんどいわ太郎

Author:しんどいわ太郎
いつの間にか、1年遅れになっちゃった・・・
別のブログを立ち上げる予定ですが、ここには季節ネタをちょくちょくあげて残しておくつもりです。
新しいブログにデータを移すのはめんどくさいからね・・・

最新記事
最新記事の地図
カテゴリ
カレンダー
プルダウン 降順 昇順 年別

10月 | 2019年11月 | 12月
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30


アクセスカウンター
リンク
天気予報
広告エリア










写真素材のピクスタ