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三次の彼岸花と安芸郡山城 ⑥

勢溜の壇(せだまりのだん)


本当はすべての郭を見て回りたかったのだが、雨が強くなってきたので仕方がない。

御蔵屋敷跡から尾崎丸を通る下山ルートを通って下山を開始した。
郡山城跡 地図
郡山城地図
登山口で配布している地図より。
安芸高田市観光ナビの観光パンフレットダウンロードページからダウンロードできます。

下山ルートの側には勢溜の壇(せだまりのだん)という郭があるので、少しだけ見学。


勢溜の壇 案内板space.jpg勢溜の壇
左/勢溜の壇 案内板   右/勢溜の壇
尾崎丸方面を守る大型の郭。広さ500~700㎡の郭が四段重ねになっている。右の写真は一番上の郭。写真で見ると、ただの林にしか見えないけど・・・

ここは、高さ1mくらいの段差のある広めの郭を四段にした郭で、本丸を守る兵士が待機していた場所らしい。

この郭は山道に沿って作られているので、尾崎丸を抜けて本丸へと向かう敵兵をここで殲滅する構造になっているのだろう。

満願寺跡


勢溜の壇から100mほど山を下ったところに満願寺跡への入口がある。

急いでいるのだが、資料館で見た石組の池跡を見たかったので、寄ってみることにした。

満願寺跡space.jpg満願寺跡案内板
左/満願寺跡   右/満願寺跡 案内板
案内板によると、満願寺は、天平12年(740年)行基が千手観音木像を彫刻してお寺を建て、木像を安置したことに始まるものと伝えられ、仏像は毛利氏の守護仏だったらしい。お寺は後に、毛利氏とともに広島、萩へと移転したが、現在は防府市内にあるそうだ。

ここにお寺があったとは信じられないくらい、どろどろにぬかるんだ敷地内を歩いていくと、端の方に池だか水たまりだか分からないものがあった。

どうやら、ここが蓮池跡らしい・・・

蓮池跡
蓮池跡
400年前は、ここに蓮の花が咲き乱れ、錦鯉が泳いでたりとかしてたのかな?
今では、端の方にわずかに残る石組がかろうじて池だった頃の面影を残している。

「昔の光今いずこ」ってやつかな・・・


妙寿寺曲輪跡


地図を見ると、満願寺跡のすぐ側に、妙寿寺曲輪という郭がある。

もうここまで来ると、ついでに寄ってみたくなるのが人間の性というやつだ。

湿地帯と化したお寺の跡を歩いていくと、石垣でもあったのだろうか、端の方には大量の石が転がり、2mくらいの急傾斜地に道が造られている。

ここを登ったところが妙寿寺曲輪のようだ。

満願寺跡space.jpg妙寿寺曲輪へ行く道
左/満願寺跡に落ちている大量の石  右/妙寿寺曲輪へ続く道
妙寿寺曲輪と満願寺の間には、2mくらいの段差がある。写真では分かりにくいが、油断すると滑り落ちるくらいの急傾斜だ。この高低差を生かしてここで敵を食い止めるつもりなのだろうが、普段の上り下りは大変そうだ。

雨で滑りやすくなった道をなんとか登り切ると、一面に木の生えた林が広がっていた。

案内板によると、ここが妙寿寺曲輪のメインの郭で、満願寺へと攻め込んだ敵を壁として防ぐ役割があったようだ。南側には帯状に郭が造られ、防御を固めるとともに、南側への通路としても使われていたらしい。

妙寿寺曲輪案内板space.jpg妙寿寺曲輪
左/妙寿寺曲輪案内板  右/妙寿寺曲輪
妙寿寺は、毛利隆元の夫人の菩提寺であったそうだ。お寺がどの辺にあったのかは分からないけど・・・
曲輪はすでに林と化しており、よく分からないのだが、ここが一番大きな郭のようだ。この下には帯曲輪が尾崎丸や本城(郡山城拡張前の本丸)方向に連なっており、本城や尾崎丸へ攻め寄せてきた敵を挟撃できるようになっているのだろう。


尾崎丸


妙寿寺曲輪から、満願寺跡へと戻り、再び下山を開始。

100mほど下ったところに、尾崎丸の案内板が立っていた。
尾崎丸案内板
尾崎丸 案内板
尾崎丸は、長さ42m幅20m、この曲輪群中最大の曲輪。隆元が尾崎殿と称されていたことから、隆元の居館があったと考えられているそうだ。

案内板によると、尾崎丸には毛利隆元の居館があったらしいのだが、案内板が立っている場所は、館を建てるにはどう考えても狭い。

満願寺 仁王門跡
満願寺仁王門跡
ここには、満願寺の仁王門が建てられていたらしい。戦争になると、仁王門を櫓として使う予定だったのかな?

おかしいと思ってよく見てみると、ここは満願寺の仁王門が建てられていた場所で、隆元の居館は、堀切を渡ったところにあったようだ。

尾崎丸 堀切
尾崎丸 堀切
尾崎丸の堀切。下の方までずっと続いているようだ。
深さは1m程度しかないが、おそらく埋まってしまったもので、当時は何メートルもあったのだろう。


本当は、堀切を渡って、尾崎丸を見てみたかったのだが、早く降りないとカメラが濡れてしまうので断念。

また今度来た時にでもゆっくり見ようかな。


展望台


尾崎丸から200mほど歩いたところに展望台があったので、しばし雨宿り。

郡山城 展望台
郡山城 展望台
2階建ての展望台。ふもとから見ると、毛利の一文字に三ツ星の家紋の垂れ幕が見えるのだが、あの垂れ幕は、この展望台にかけてある。
展望台で休んでいると、大きな牡鹿が鳴きながら走り去って行った。命を守るためとはいえ、すごい所に城を造るなぁ・・・

しかし、結局雨は止むことはなく、びしょ濡れになって帰る羽目になってしまった・・・

展望台から見た吉田の町
展望台から見た吉田の町
雨が降っているので、展望台の2階から見る気は起きなかった。どうせガスってよく見えないしね。

折角登ったのに、雨のせいでゆっくり見ることができなかったのがとても残念。

本城の本丸の方にも行ってみたいし、また機会があったら登ってみなくちゃね。



★★★★★Data★★★★★★★★★★

1.お出かけした日: 2016年9月25日(日)
2.しんどいわポイント(しんどさを表わします):★★★☆☆
3.目的地までの所要時間(自宅~吉舎町辻まで):1時間36分(79km)
4.走行距離:166Km(自家用車) +11,221歩( 徒歩8.1Km)
5.消費エネルギー:ガソリン8.3ℓ(ガソリンはリッター20Kmで計算)+330.7Kcal(脂肪燃焼量47.2g)
6.地図はこちら




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三次の彼岸花と安芸郡山城 ⑤

本丸への道


元就公の墓所から本丸跡へは800m。案内板に、登城口ではなく、登山口と書いてあるあたり、とても嫌な予感がする。

元就公の墓所の裏にある嘯岳禅師の墓までは石畳だったのに、その先は山道っぽくなっていく。

嘯岳禅師の墓space.jpg嘯岳禅師の墓 案内板
左/嘯岳禅師の墓   右/嘯岳禅師の墓 案内板
元就公が度々吉田に招いたという嘯岳禅師は、元就公の葬儀の導師を務め、菩提寺である洞春寺を開山した。


嘯岳禅師の墓に至る道space.jpg次第に山道へ
左/嘯岳禅師の墓までの道   右/嘯岳禅師の墓を過ぎたあたり
嘯岳禅師の墓くらいまではとてもきれいに整備されている。が、そこを過ぎると、次第に山道っぽくなっていく・・・

普段、歩くことすらほとんどない私にはとても辛い。山登りは趣味じゃないんだけど・・・・

本丸への道space.jpg本丸への道
本丸への道
整備されており、道に迷うことはないが、もはや完全に山道。
800mなんて大したことないと思う人もいるかもしれないが、平地を歩くのと違って山道の800mはかなりきつい。

歩き始めて10分。開けたところが見えたので、もう着いたのかと思いきや、まだ半分も登っていなかった・・・

郡山城登山道space.jpg郡山城 登山道
本丸への道
登る前から曇っていた空は鉛色となり、今にも雨が降り出しそうになっている。天気が良かったら、吉田の町がきれいに見えるんだろうけど・・・

登り始めて20分。ようやく本丸近くにある御蔵屋敷跡に到着。ここで一息入れたかったのだが、最悪なタイミングで雨が降り始めた。

早く降りなくちゃ。

本丸付近の道space.jpg御蔵屋敷跡案内板
左/本丸付近の山道  右/御蔵屋敷跡
御蔵屋敷前の道。とても本丸付近の道とは思えない、普通の山道。昔はきれいに整備されていたのだろうか?

御蔵屋敷跡


御蔵屋敷跡は、二の丸の西側に位置する郭で、もともとは兵糧蔵があったと伝えられている。

たくさん転がっている石は、もともと石垣だったもの。一国一城令もあるのだが、島原の乱の後、一揆軍に利用されるのを恐れて完全に破却されたそうだ。

御蔵屋敷跡
御蔵屋敷跡
兵糧蔵跡と伝えられる。面積は600㎡。写真右側が、御蔵屋敷東側で、たくさんの石が落ちている。島原の乱で、廃城になっていた原城を一揆軍が利用したことから、ここも一揆軍に利用されないように完全に壊してしまったらしい。

三の丸跡


御蔵屋敷跡から、本丸を目指し、とりあえず三の丸方面へと向かってみる。

三の丸は、城内最大の郭で、ここに残る石垣は、比較的昔の面影をとどめているらしい。

素人目にはとてもじゃないが、石垣跡には見えないんだけど・・・・

三の丸石垣space.jpg土塁跡
左/三の丸石垣   右/三の丸 土塁跡
昔の面影を残す石垣跡。・・・らしいんだけど、素人目には石垣跡にはとても見えない。広大な三の丸は、いくつかの土塁と石塁、石垣などで区分けされていたようだ。

二の丸跡


三の丸から一段上がったところが二の丸だ。

案内板によると、東西36m、南北20mの広さがあったそうだ。

三の丸から二の丸への通路space.jpg二の丸案内板
左/三の丸から二の丸への通路  右/二の丸 案内板
三の丸から二の丸への通路?通路って感じじゃないんだけど・・・本当に門があったのだろうか???

二の丸跡
二の丸跡
周囲を高さ50cm、幅1mの石垣や石塁で、27mと15mの方形に区画されていたらしい。

本丸跡


二の丸から、石列で画された通路を通って上に上がったところが本丸跡。城主の館があり、元就公やその孫の輝元らが住んでいたらしい。

二の丸から本丸への石列space.jpg本丸案内板
左/二の丸から本丸への通路 石列が残っている   右/本丸跡案内板
本丸は一辺が約35mの郭で、山頂部に位置する。標高は389.7mで、比高は約200m。城主の館があったとされ、江戸時代に書かれた絵図には、三層の天守閣が描かれている。元就や輝元が居住していたらしい。

本丸跡
本丸跡
本丸跡。天守閣があったかどうかはわからないが、城主の館はあったらしい。元就は75歳まで生きたようだけど、こんな山の上に住むのは結構大変だったんじゃないかな?

本丸跡から、一段高くなった所(長さ23m、幅10m)が櫓台跡で、どうやらここが山頂部のようだ。

櫓台へ上がる道space.jpg櫓台跡
左/櫓台に登る道  右/櫓台跡
本丸から一段高くなったところが櫓台。

櫓台跡からは、本丸跡、二の丸跡などがよく見える。

ここにどんな櫓が建っていたのか、想像して一人楽しんでいたのだが、雨がだんだんと強くなってきて洒落にならなくなってきた。

櫓台からの眺め
櫓台からの眺め
本丸跡、二の丸跡がよく見える。ここにはどんな櫓が建っていたのだろうか。仮設づくりの井楼櫓なのか、それとも江戸時代にかけての城なので、土蔵造りの立派な建物だったのか?

もともとヒガンバナを見に行ったついでに寄っただけなので、雨具はおろか、山歩き用の装備は何一つ持っていない。

折角ここまで登ってきたのにとても残念だけど、早く降りなくちゃね・・・



三次の彼岸花と安芸郡山城 ④

毛利元就公墓所


参道入口から300m。きれいに舗装された道を歩いて登ると、元就公の墓所に到着する。
毛利元就公墓所
毛利元就公墓所
お墓までの道はきれいに舗装されている。とても歩きやすい道なので、足の悪い人でも大丈夫だろう。城跡に興味のない人はここまで来るだけでいいかもしれない。

元就公の墓所は、元就公の菩提寺であった洞春寺(とうしゅんじ)というお寺の跡に造られたもので、お城の郭のように三段に分かれた造りになっている。

洞春寺案内板space.jpg元就公墓所 一番上の段に続く階段
左/洞春寺跡案内板   右/一番上の段に続く階段
洞春寺(とうしゅんじ)は、元就の孫である輝元が造ったお寺。広島城移城に伴い、広島城下へと移った後、毛利の転封に伴い、萩へと移ったらしい。もみじがきれいだったから、紅葉の季節にはいいかも。

元就公の墓は、その一番上の段に建てられているのだが、墓標代わりに「ハリイブキ」という木が植えられているのが特徴的だ。

元就公墓所space.jpg元就公墓所
左/元就公墓所 遠景   右/元就公墓所 中の様子
お墓には、もう枯れてしまっているが、墓標がわりに「ハリイブキ」の木が植えられている。「ハリイブキ」というのは、園芸種の「イブキ」と少し違い、針状の葉を持つ、日本では珍しいものらしい。他の方のブログで読んだのだが、篠原起昌氏の「毛利元就とハリイブキ考」という本に書いてあるらしいので、暇になったら図書館に行って読んでみなくては。


元就公のお墓と同じ段には、「百万一心」という石碑も建てられている。

この石碑は、城の工事の際、人柱の代わりに「百万一心」と書いた石を埋めたところ、工事が無事に終わったという伝説を伝えるために、昭和6年に作られた石碑である。

この「百万一心」だが、「一日・一力・一心」とも読めることから、有名な「三矢の訓」とともに、皆が力を合わせることの重要性を説いたものだと言われている。

百万一心の碑
百万一心の碑
「百」を分解して「一日」と読み、「万」を分解して「一力」と読むことができる。「日を一にし、力を一にし、心を一にすれば、何事も成功するのだ」と、皆で協力することの大切さを説いているらしい。「三矢の訓」(矢は一本だと折れるけど、三本まとまると折れないという、有名な話)と似た感じの話。

まぁ、どちらも伝説ではあるんだけど・・・

百万一心の碑 解説の碑
「百万一心」解説の碑
文化13年(1816年)、長州藩士の武田泰信が郡山城に登った際、姫の丸で「百万一心」と書かれた大きな石を発見して文字を写し取って帰り、山口の豊栄神社に奉納したといわれている。ただし、肝心のその石は、いまだに見つかっていない。
「百万一心」の大石を人柱の代わりに埋めることで、人柱にされそうになった娘を助けたという話といい、少し胡散臭さを感じてしまうのは、私の心が汚れているせいなのか?

この伝説の真偽のほどは定かではないが、一族の内紛で自滅の道を歩んだ尼子氏のことを思うと、皆が力を合わせることは大事なのかなと思ったりもする。

力を合わせる友達も家族もいない自分には、あんまり関係ないけど・・・


毛利元就公墓所


元就公の墓の一つ下の段には、毛利一族のお墓が建てられている。これは、明治時代に、各所にあった一族のお墓をまとめたものらしい。
毛利一族の墓案内板
毛利一族の墓所 案内板
明治時代に、各所にあったお墓を一か所にまとめたもの。明治維新の立役者となった長州藩には、藩主である毛利の歴史を整え、自分たちの正当性をアピールする必要があったようだ。
少し胡散臭い伝説も、彼らによって作られたのかもしれない。

案内板によると、左から元就の兄である毛利興元(おきもと)、その息子の幸松丸(こうまつまる)、尾崎局(隆元夫人)、先祖合葬の墓が並んでいるようだ。

毛利一族の墓
毛利一族の墓所
元就の兄 興元は、酒毒により25歳の若さで急死。元就が後見人となり、まだ2歳であった幸松丸が跡を継いだ。
その後、幸松丸が9歳で急死し、重臣たちの推挙という形で元就が毛利家を継ぐこととなった。
幸松丸は、鏡山城の戦いで無理やり首実検をさせられ、それがトラウマになって死亡したと伝えられている。ただ、元就に暗殺された可能性も否定はできない。


お互い、仲が良かったかどうかは分からないから、一緒に葬られるのもどうかなと思わなくはないんだけどね。



三次の彼岸花と安芸郡山城 ③

酉谷地点石垣跡


御里屋敷跡から坂道を登ること150m、がけ下に案内板が立っている。どうやら、ここも城の遺構だったようだ。
酉谷地点石垣案内板
酉谷地点石垣案内板
御里屋敷跡からすぐのところにある案内板。案内板も崖の上の方にある(写真左まんなか付近)。
ここから道路の方まで石垣が築かれていたのだろうか?
それにしても、こんな山の下の方まで城の遺構があるとは思わなかった。本当に全山にわたって城が築かれていたらしい。

崖を登るのは危険なので、案内板のところまでしかたどり着けなかったが、こんな山裾の方にまで郭が作られていたというのは驚きだ。

酉谷地点石垣案内板space.jpg酉谷地点石垣
左/酉谷地点石垣案内板   右/酉谷地点石垣
こんな山裾にまで郭があったというのは驚きだ。私の頭ではどんな城だったのか想像できない・・・・誰か、想像図でもいいから書いて欲しいなぁ。

毛利隆元公 墓所


そこからさらに50mほど登ると、毛利隆元公の墓所がある。他の一族の墓から一人離れたところに建てられているのだが、隆元の菩提寺であった常栄寺という寺がここにあったためらしい。

毛利隆元公 墓所入口space.jpg毛利隆元公墓所案内板
左/毛利隆元公墓所入口  右/毛利隆元公墓所 案内板
菩提寺跡にお墓を作ったようだ。別に、影の薄い人だったから爪はじきにされたわけではない。
しかし、毛利元就公や他の一族の墓所から一人だけ離れた所にあり、少し気の毒な気もする。


毛利隆元公 墓所
毛利隆元公墓所
毛利隆元は、毛利元就の嫡男で、毛利家の第14代当主。偉大な父親と優れた弟達に隠れた存在で、知名度は低いが、特に内政手腕には秀でていたようだ。
軍事面でも、大内義隆を殺害した陶隆房(晴賢)との戦いを元就に決意させ、陶隆房(晴賢)を厳島の戦い(1555年)で滅ぼして、毛利が大大名となる礎を築いている。
尼子晴久亡き後、勢力の衰えてきた尼子氏と決着をつけるため、九州の大友氏と和議を結び、元就等の遠征軍に合流すべく出雲へ向かっていた隆元だが、途中の高宮町佐々部で急死した(永禄6年 1563年)。41歳の若さであった。南天山城で、備後の国人領主 和智誠春の饗宴に招かれた直後に亡くなっており、食中毒とも毒殺ともいわれているが、真相は明らかでない。
遺体は、宿舎でもあった佐々部の蓮華寺で荼毘にふされ、そこには隆元の墓が残されている。ちなみに、このときの戦い(第二次月山富田城の戦い)で、毛利氏は尼子氏を滅ぼしている。

墓に木が植えられているのが気になって(洒落じゃないけど・・・)、いろいろ調べたんだけど、よく分からない。元就公の墓にも木が植えられているところをみると、毛利家で昔流行っていたのかもしれない。

薬研堀跡と青光井山尼子陣所跡(遠景)


毛利隆元公の墓所から、200mほど歩くと毛利元就公墓所前の鳥居にたどり着くのだが、その手前はちょっとした公園になっていて、そこには案内板がいくつか立っていた。
毛利元就公墓所入口の鳥居
毛利元就公墓所前の鳥居
この鳥居をくぐると、いよいよ郡山城内・・という感じがする。本当はずっと下の方までお城だったみたいだけどね。

山の方(北側)に立っていたのが、薬研堀跡の案内板。

薬研堀跡案内板space.jpg薬研堀跡
左/薬研堀跡案内板  右/薬研堀跡
薬研堀は、薬研(薬を調合する道具)のように断面がV字型の堀。薬研堀の発掘調査例では、国内で最も長いものらしい。

そして、町側(南側)に立っていたのが、青光井山尼子陣所跡の案内板。1540年に起こった、尼子氏と毛利氏の戦いの史跡だ。

青光井山尼子陣所跡案内板space.jpg青光井山尼子陣所跡(遠景)
左/青光井山尼子陣所跡案内板  右/青光井山尼子陣所跡(遠景)
吉田郡山城の戦い(1540年(天文9年)~1541年(天文10年))で、尼子詮久(晴久)が本陣を置いた青山(写真左側)と光井山(写真右側)(2つまとめて青光井山)。ここで、毛利軍2,400と尼子軍30,000が対峙した)


吉田郡山城の戦いは、以前にも書いたのだが、尼子氏から離反し、大内氏側についた毛利氏を討つために尼子詮久(晴久)が3万もの大軍を率いて攻めこんで来た戦いである。
吉田郡山城の戦い
吉田郡山城の戦い
案内板の写真を使わせてもらって、尼子と毛利の布陣を書き込んでみました。
①8月に富田城を出発して、9月4日に多治比川上流の風越山に本陣を置いた尼子軍は、9月23日に青光井山へと本陣を移す。②10月11日、多治比川を渡って、郡山城に侵攻した尼子軍は毛利軍に撃退される(青山土取場の戦い)。③12月23日陶隆房率いる大内氏援軍10,000人が到着。毛利軍も討って出て、激しい戦闘を繰り返す。④1月14日尼子軍撤退。
尼子軍は数において圧倒的に優勢だったにも関わらず、大内氏の援軍が来るまで本格的な戦闘はほとんど行われず、散発的な戦闘にとどまっている。本当に毛利氏を滅ぼすための戦いだったのか疑問視する向きもあるようだ。

今は、どう見ても普通の山間の小さな町だが、こんな所に日本屈指の大きな山城があり、何万もの兵が戦ったというのが本当に信じられない(今の町の人口は約1万人・・・)。

まぁ、そこが歴史の面白いところなんだけどね。


おまけ


時系列が分かりにくいので、ちょっとだけ整理してみました。

1523年(大永3年) 毛利元就 家督を相続。(相続時に尼子経久の介入があり、争いになる)(元就27歳)
1525年(大永5年) 毛利氏が尼子を離反し、大内氏傘下に入る(ただし、両者の間でバランスを保ち続ける)。
1537年(天文6年) 隆元を大内氏へ人質に出し、毛利氏の大内氏帰属の意思が明確になる。
1540年(天文9年) 吉田郡山城の戦い(元就44歳)
1542年(天文11年) 第一次月山富田城の戦い(尼子に敗れ、隆元ともども、命からがら逃げかえる)
1546年(天文15年) 毛利隆元が家督を相続する(元就50歳)
1555年(弘治元年) 厳島合戦に勝利。陶隆房(晴賢)自刃。(元就59歳)
1557年(弘治3年) 大内氏を滅ぼし、周防長門を平定。(元就61歳)
1563年(永禄6年) 敵対関係にあった大友氏と和睦成立。第二次月山富田城の戦い。遠征途中で隆元は病死。(元就67歳)
1566年(永禄9年) 尼子氏降伏。毛利氏中国平定(元就70歳)
1571年(元亀2年) 郡山城にて、元就死去(元就75歳)






三次の彼岸花と安芸郡山城 ②

安芸高田市歴史民俗博物館


ヒガンバナを見た後、吉田にある郡山城に行くことにした。

郡山城は、毛利輝元が広島城を完成させ、居城を移すまでの間、毛利の居城であった城である。

ライバル関係だった尼子の月山富田城に行った時から、いつかは行ってみようと思っていたのだ。

安芸高田市歴史民俗博物館
安芸高田市歴史民俗博物館
主に、毛利氏と郡山城に関する資料が展示してある。
展示資料はかなり参考になるものばかりで、お城に上る前に見ておけば理解が深まること間違いなし。
これで入館料300円は安い。おすすめの施設だ。

まずは、お城の近くにある安芸高田市歴史民俗博物館に入ってお城の下調べ。

メインの展示室が撮影禁止なのは少し残念だが、展示資料は豊富でとても参考になった。

博物館に展示してある年表
博物館に展示してある年表
郡山城がいつ築城されたのかははっきり分らないようだが、南北朝時代の1336年(建武3年)に毛利時親が吉田荘(よしだのしょう)の地頭として下向した時には、郡山城を居城としたようだ。毛利元就、隆元、輝元の3代に渡って城域は郡山全山に渡って拡張・整備されたが、1591年(天正19年)、輝元の時代に居城を広島城へと移し、郡山城は廃城となった。
その後、1615年(慶長20年)の一国一城令、1637年の島原の乱を契機に石垣などが完全に破却されている。


郡山城のジオラマ
博物館に展示してある郡山城のジオラマ
郡山城は、北上する可愛川(江の川)とそれに注ぐ多治比川の合流点の北側に位置する。標高390m(比高190m)の山頂付近にある本丸を中心として、放射状に伸びた尾根には270以上の郭、麓には内堀が巡らされ、城域は東西に約1.1km、南北に約0.9kmに及んだという。

個人的にとても気になった展示は、安芸高田市の広報に不定期に連載されている安芸高田市歴史紀行 シリーズ「お城拝見!」だ。

安芸高田市にたくさん残っている山城を詳しく解説してあるのでとても参考になる。


シリーズお城拝見!
シリーズお城拝見!の記事
安芸高田市のホームページから、「広報あきたかた」のバックナンバーがダウンロードできるので、可能な限りかき集めた。
これを参考にして山城めぐりをしなくちゃ。

「広報あきたかた」は安芸高田市のホームページから可能な限りダウンロードしたし、これからしっかり読み込んで山城めぐりでもしてみようかな。


伝御里屋敷跡


博物館に1時間ほどいたため、歴史博物館を出て、郡山城に向かう頃には13時を回ってしまった。

夕方までには車に戻りたいので、急いで出発だ。

郡山城跡の石碑space.jpg郡山城跡 入り口
郡山城入り口
城跡の入り口から、毛利元就の墓所あたりまでは人家が続く。この辺りを歩いているときは、まさかお城があんな深い山の中にあるとは思ってなかった・・・


出発してから、最初に見ることのできる史跡は毛利元就の居館があったという御里屋敷跡。

屋敷跡には、毛利元就公の銅像と、屋敷跡の碑が建てられている・・・のだが、ここでの発掘作業の結果、遺構や遺物と思われるものが出土せず、ここにあったかどうかは疑問視されているようだ。

御里屋敷跡の碑space.jpg毛利元就公銅像
左/御里屋敷跡の碑   右/御里屋敷跡に建てられた元就の銅像
現在、吉田少年自然の家が建っている場所が、元就の御里屋敷跡と伝えられており、ここには元就の銅像と、三矢の訓碑が建てられている。

御里屋敷跡 解説板
御里屋敷跡 解説板
平成3年・4年に試掘された調査では、ここから屋敷跡であることを裏付ける遺跡や遺物は見つからなかったそうだ。
本当はどこにあったんだろう?


まぁ、450年も前のことだし、分らなくもなるよね。


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しんどいわ太郎

Author:しんどいわ太郎
いつの間にか、1年遅れになっちゃった・・・
別のブログを立ち上げる予定ですが、ここには季節ネタをちょくちょくあげて残しておくつもりです。
新しいブログにデータを移すのはめんどくさいからね・・・

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