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奥出雲おろちループと月山富田城・出雲大社 ⑧

出雲大社へ


月山富田城の城下町、広瀬の町には、尼子氏ゆかりの史跡が沢山ある。

行ってみたいところは沢山あったのだが、降り続く雨と山中御殿までしか登れなかったショックで心が折れてしまった・・・

とはいえ、まだ帰るには時間も早いので、出雲大社(いずもおおやしろ)に行くことにした。

少しはいいことがあるように神様にお願いしなくちゃね。

出雲大社鳥居
勢溜り(せいだまり)の大鳥居
この勢溜りの鳥居が出雲大社の正門である。神社の西側にある駐車場からは少し歩くようになるが、やっぱりここから入らなきゃ。
月山富田城から出雲大社へは68km。意外と遠くて着くまでに疲れちゃった。

月山富田城のある安来からは思った以上に遠く、着いたのは15時。雨は上がったが、参拝客の多さに辟易。
着いた途端帰りたくなったけど、とりあえずお詣りだけはしなくちゃね。


出雲大社境内の兎像
出雲大社のウサギ像
因幡の白兎の伝説にちなんで、境内のあちらこちらに兎の像が設置してある。
ところで、因幡の白兎に出てくる和邇(ワニ)だが、山陰や広島県北部では鮫のことをワニと呼ぶので、昔からサメの事だと思っていたのだが、普通のワニとする説などいろんな説があるらしい。

境内には、祭神である大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)と、大国主大神が助けたという因幡の白兎の伝説にちなんで、ウサギの像が多数設置してある。

縁結びの碑(いしぶみ)
縁結びの碑(いしぶみ)
日本書紀では、大国主大神は、ヤマタノオロチを退治したスサノオノミコトの息子ということになっているらしいのだが、古事記では、スサノオノミコトの娘である須勢理毘売命(スセリビメ)と結婚したことになっているそうだ。
この石碑は、様々な試練を克服した末、むすばれた二人が誓いの盃を交わす様子を描いたものだそうだ。
個人的には、お酒を酌みかわすウサギの像の方がかわいくていいけど。今度来た時は、境内にいるウサギ全員の写真でも撮ってみるかな。

兎の像は、境内のあちらこちらに設置してあり、酒を飲んでいるのや、まわしを締めたのまでいるらしいから、全部探してみるのも楽しいかもしれない。

御慈愛の御神像
御慈愛の御神像
ワニに皮を剥かれたうえ、大国主の兄弟である八十神(やそがみ)に騙されて海水を浴び、痛みに苦しむことになったウサギと、それを助けた大国主大神の像である。
その優しさのお陰なのか、因幡の八上比売(やかみひめ)に選ばれ、結婚することになったという。
その後、八上比売は大国主との間に子供(木俣神)をもうけたが、正妻である須勢理毘売命を恐れて実家に帰っちゃったらしいけどね・・・

拝殿と本殿でお詣りをした後、本殿の周りをぐるっと一周してみたが、さすがに大きい。

出雲大社 拝殿space.jpg出雲大社本殿
左/拝殿  右/本殿
出雲大社では、「2礼2拍手1礼」ではなく、「2礼4拍手1礼」が正式な参拝方法になっているので、注意が必要だ。
ご縁を結ぶ神様ということで、仕事の御縁をお祈りしてきた。いい仕事、紹介してください。

今の本殿は延享元年(1744年)に造営されたもので、高さ8丈(24m)だが、神社の案内板によると、古代の本殿は高さが16丈(48m)もあり、東大寺大仏殿(高さ15丈)よりも大きな建物だったという。

出雲大社の案内板
出雲大社案内板
出雲大社は、国津神(くにつかみ)であり、葦原中国(あしはらのなかつくに)を作った大国主大神が、天津神(あまつかみ)に国譲りをした際、その功績を称えて創建されたといわれている。
いつ創建されたものかはよく分からないが、斉明天皇5年(659年)に、厳神之宮(いつかしのかみのみや)として、神殿を修復した記録が残っているそうだ。

本殿の裏にもウサギの像が何体も立っていて、大国主大神のことを今でも見守っているようだ。


北側から見た本殿space.jpg本殿を見守るウサギたち
左/本殿  右/本殿を見守るウサギたち
本殿裏には、ウサギたちの像がいくつも並んでいた。

本殿裏のうさぎたちspace.jpg本殿裏のうさぎたち
本殿裏のうさぎたち
読書したり、ラブを注入したり、いろんな奴がいる。なんか楽しそう・・


境内に咲いたヒガンバナも綺麗だったし、たまには出雲大社まで足を延ばすのもいいかも。

ただ、次に来るときは、早朝の静かな時間に来たいな。

出雲大社のヒガンバナと蝶space.jpg出雲大社のヒガンバナと蜂
出雲大社の境内に咲いたヒガンバナ
左側にはクロアゲハ、右側にはミツバチが写っているのが分かるかな。それだけだけどね・・・





★★★★★Data★★★★★★★★★★

1.お出かけした日: 2016年9月22日(木)
2.しんどいわポイント(しんどさを表わします):★★★☆☆
3.目的地までの所要時間(広島市内~おろちループまで):4時間30分(150km)
4.走行距離:449Km(自家用車) +13,404歩( 徒歩9.7Km)(走行距離は吉田からではなく、広島市内からカウント)
5.消費エネルギー:ガソリン22.45ℓ(ガソリンはリッター20Kmで計算)+363.8Kcal(脂肪燃焼量51.9g)
6.地図はこちら


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奥出雲おろちループと月山富田城・出雲大社 ⑦

月山富田城 ⑧(山中御殿)


へこんでいても仕方がないので、ゆっくりと山中御殿を散策してみる。

山中御殿
山中御殿
山の中とは思えないほど広大な敷地が造られている。ここにどんな建物が建っていたのだろうか。

月山富田城は、尼子氏が滅んだ後、毛利・吉川が支配し、関ヶ原の合戦後、毛利氏が萩に転封になってからは堀尾忠氏(ほりおただうじ)が城主となった。

堀尾忠氏は、父親の吉晴とともに月山富田城を近世城郭に作り変えているのだが、この山中御殿にも、堀尾氏の時代に壮大な居館が建設されたらしい。

山中御殿
山中御殿
手前の石垣から奥の重機や車のある所までが山中御殿。
松江城建築の際には、解体した富田城の木材も利用されたらしい。ひどいや・・・・

しかし、①城が内陸にあり、交通が不便だったこと、②城下町を整備するのに、土地が狭かったことから、1611年(慶長16年)に松江城を完成させて、移転。月山富田城は、1615年(元和元年)の一国一城令により、破城となっている。

せめて正確な図面とか絵図が残っていれば良かったのに、とても残念。

山中御殿 案内板
山中御殿 案内板
独特な形をした塩谷口の門跡などが見どころらしい。
石垣の造りなどから、堀尾氏の時代の物と推測されているようだ。毛利と尼子が戦っていた頃のお城ってどんなだったのかな?

それでも、山中御殿の案内板によると、山中御殿平には、独特な形をした塩谷口の門跡、菅谷口の門跡、山頂のお城へと続く七曲りと呼ばれる軍用道などが残り、往時の面影を残しているという。

立ち入り禁止だったから、どれも見られなかったけどね・・・・

雑用井戸space.jpg雑用井戸
雑用井戸
菅谷口付近に残る雑用井戸。雑用ってなんだろう?洗濯とかに使ったのかな?

菅谷口の門space.jpg菅谷口の石垣
左/菅谷口の門跡   右/菅谷口の石垣
左は菅谷口に残る門跡。石垣の所には櫓も建てられていたようだ。 右は石垣を外側から見た所。

七曲り 入り口space.jpg七曲り
左/七曲り入り口   右/七曲り
左は七曲りの入り口。右は七曲り。本当ならここから山頂のお城へ行けるはずだった。無念・・・


結局見られたのは、雑用井戸と七曲りの入り口、菅谷口の門跡のみ。せめて山頂の本丸跡だけでも見たかったな・・・

塩谷興久の墓と飯梨川の流れ


車を停めていた道の駅に戻り、道の駅のすぐ傍にある塩谷興久(えんやおきひさ)の墓を見に行った。

塩谷興久の墓
塩谷興久の墓
所領に対する不満から反乱を起こしたともいわれている。
この反乱は大規模なものとなり、尼子家中を二分する争いとなったようだ。4年も続いたこの乱によって、尼子の勢力は大きく減衰することとなってしまった。
月山富田城の麓にひっそりと建てられた墓だが、苔むした宝篋印塔の笠の部分が落下していたりとか、結構扱いがひどい。お願いだから直してあげて。

塩谷興久は、尼子経久の三男だが、1530年(享禄3年)に反乱を起こした人物である。

最後は、妻の実家である備後甲山城の山内直通を頼ったが、4年後の1534年(天文3年)に自害に追い込まれた。

山陰の覇者と呼ばれた尼子経久だが、長男の政久は早くに戦死、二男の国久は新宮党事件で粛清され、三男の興久はこうして反乱を起こして亡くなっている。

こうした一族の団結力のなさが、毛利との差だったのかもしれない。

月山富田城や尼子氏のことがもっと知りたかったので、道の駅の傍にある安来市立歴史資料館に入ってみたのだが、そこに富田川河床遺跡(とだがわかしょういせき)の事が書いてあった。

安来市立歴史資料館
安来市立歴史資料館
ワンフロアーだけの展示で、情報量はあまり多くはない。あまり期待するとがっかりするかも。
でも、安来の地名は、スサノオノミコトがこの地に来て「私の心は安らかになった」といったことに由来するとか、富田川河床遺跡のことも書いてあったので、少し勉強になった

それによると、富田川(現在の飯梨川)は、たびたび氾濫を起こしたが、1666年(寛文6年)に起きた大洪水のために、城下町は壊滅的な被害を受けたらしい。

しかも洪水は、川の流れそのものを変えてしまい、かつての城下町は富田川の下に沈んだために、今の町(広瀬町)がある場所に町を移転したのだそうだ。


飯梨川(かつての富田川)の流れ
飯梨川の流れ
この川が流れているところは、昔は城下町だったらしく、河床からは、昔の住居跡や井戸、生活用具などが多数出土したそうだ。

歴史資料館を出た後、河原の方に行ってみたが、そこにも遺跡のことが書かれた案内板が置かれていた。
富田川河床遺跡の案内板
富田川河床遺跡の案内板
城下町が川底に沈んだため、初代広瀬藩主 松平近栄(ちかよし)が新たな町づくりの許可を幕府からもらっている(広瀬藩は松江藩の分藩)。
花崗岩の多い中国地方は、もともと砂が川に流入しやすいうえに、たたら製鉄の鉄穴流し(かんなながし)によってたくさんの土砂が上流から流れて堆積していったのも洪水が多かった理由らしい。

月山富田城というと、尼子と毛利の戦いのことばかり頭に浮かぶけど、いろいろと大変な歴史があるもんだね。



奥出雲おろちループと月山富田城・出雲大社 ⑥

月山富田城 ⑥(花の壇から山中御殿へ)


花の壇から山中御殿へ行くには、いったん花の壇から急な下り坂を降り、細い道を歩いて行かねばならない。

雨が降って滑りやすいし、結構しんどいけど、お城だからしょうがないよね・・・

花の壇を降りる道space.jpg花の壇から山中御殿へ続く道
左/花の壇から降りる道    右/花の壇から山中御殿へと続く道
花の壇から降りる道もかなり急な坂道で、しかもつづら折りになっている。下手すると、下まで滑り落ちそうだ。

花の壇と山中御殿の間には、深い堀切が造られているのだが、その手前に昔の通路跡が保存されていた。

花の壇と山中御殿の間の堀切
花の壇と山中御殿の間の堀切
かなり深い堀切。両側から弓矢や鉄砲で攻撃されるとひとたまりもないだろう。

通路跡space.jpg通路跡の地層
左/通路跡  右/通路跡の地層の断面
通路が雨などで崩れないよう、2mにわたって、真砂土と粘土を14層に固めて頑丈にしてあるらしい。これを版築と呼ぶそうだ。

一見、何でもない通路だが、雨で崩れないように真砂土と粘土を14層に固めて頑丈にしてあるらしい。城全体がこんな感じで手間をかけて造られているのかな?

すごいとは思うんだけど、作業に駆り出された農民達はたまったもんじゃないよね・・・・

月山富田城 ⑦(山中御殿)


通路跡から50mほど歩くと、山中御殿の石垣が見えてくる。

山中御殿の石垣
山中御殿の石垣
かつて城主が住んだという山中御殿。城に通じる3つの通路(塩谷口、お子守口、菅谷口)はすべてこの山中御殿に繋がっており、文字通り、最後の砦となっている。
郭の周囲は5mほどの石垣で囲まれ、厳重に守られているが、ここを落とされても山の上に築いた城に籠って、守り抜くという二段構えの城になっている。

山中御殿の手前側(北側)にも2mほどの石垣が築かれていて、石垣の上はかなり広い平坦地となっており、何らかの建物が建っていたと思われる。

山中御殿前の石垣space.jpg石垣の上に登ったところ
山中御殿前の石垣
何らかの建物が建っていたのだろう。山中御殿の傍にあるし、役所的なものだったのかな?

山中御殿前の郭からの眺め
山中御殿前の郭からの眺望
端の方まで歩いて行くと、花の壇に再現された小屋と、堀切りが見える。城の防衛上も重要な場所だったのだろう。
遠くに見える山は京羅木山(きょうらぎさん)。第一次月山富田城の戦いの際に、大内義隆が本陣を置いた場所だ。

そして、ついに山中御殿平(さんちゅうごてんなり)に到着。

ここは、城主の居館のあった場所で、城へと続く三本の道(菅谷口、塩谷口、お子守口)がすべてここに繋がっているという、城の中核となる場所である。

ここと、山頂の城跡に上がるのが楽しみで、雨の中を朝ごはんも食べずに登ってきたようなものなのだが・・・

よく見ると、山中御殿の南半分が工事のために立ち入り禁止になっていた。しかも、あろうことか、山頂の本丸へと続く道、菅谷口へと続く道も立ち入り禁止になっているではないか。

工事中の山中御殿平space.jpg通行止めになっている本丸への道
左/工事中で、立ち入り禁止になっている山中御殿平(さんちゅうごてんなり)  右/通行止めになっている本丸への道と菅谷口へ続く道
山中御殿平の南半分が立ち入り禁止で、大手門の跡や、屋敷の跡などが見られない。それだけならまだしも、本丸へ続く道まで通行止め。なんてこったぁ。


ここまで来て、どういう仕打ちですか・・・・・



奥出雲おろちループと月山富田城・出雲大社 ⑤

月山富田城 ④(奥書院平)


太鼓壇(たいこのだん)から、土塁(?)の周囲を周るように道が続いているのだが、そこを60mほど歩くと奥書院平(おくしょいんなり)と呼ばれる広い郭に出る。
奥書院平へと続く道
奥書院平へと続く道
太鼓壇から奥書院平へと続く道。
土塁(?)の周りを周るように道が続く。
上から攻撃するためのものなのかな?

今は戦没者慰霊碑が立っているが、かつてはここに奥書院があったらしい。

奥書院平
奥書院平
戦没者慰霊碑が建つ。
奥書院というからには、書院造の建物が建っていたんだろうけど、ここにどんな建物が建っていて、どんな用途に使われていたのか、解説板もないし、よく分からない。

奥書院がどんな建物で、どういう用途に使われたのかはよく分からないのだが、「山中鹿之介」(星亮一著)という小説には、奥書院で軍議をする尼子義久が登場する。

御子守口方面を守るための防衛拠点だったのかもしれない。

奥書院平からの景色
奥書院平からの景色
ここから、下の方へ下っていくと、御子守口からお城に続く道に出られる。城へと向かう敵兵を奇襲するのにはいい場所だ。


月山富田城 ⑤(花の壇)


奥書院からさらに山の方へと登っていくと、ひときわ大きな土塁があり、その周りに細い道が造られている。

花の壇へ続く道
花の壇へと続く道
奥書院から花の壇へと続く道。もはや城なのか山なのかよく分からない。ただ、こんな細い道を一列になって歩いているときに上から攻撃されると、ひとたまりもないだろう。見た目は普通の山だが、防衛能力はかなり高いものと思われる


その細い道を200mほど登っていったところにつくられた曲輪が、花の壇平(はなのだんなり)だ。ここには、花が沢山植えられていたことからこの名前が付けられたらしい。

花の壇space.jpg花の壇解説板
左/花の壇    右/花の壇解説板
奥に見える山が、本丸のある山。このすぐそばに、城主が暮らしていたという山中御殿がある。花の壇なんて可愛らしい名前で呼ばれているが、城を守る最終防衛ラインだったのだろう。

解説板によると、花の壇の南側(お城に近い方)には、建物跡が見つかったらしく、指導力のある武将が暮らしていたと考えられているらしい。

建物跡の見つかった場所には、建物が復元され、休憩所として利用されている。

花の壇 復元建物
花の壇の復元建物
土壁の質素な建物だが、戦国時代の城らしいといえるのかな。

ちなみに、建物の中はこんな感じ。

花の壇 建物の中space.jpg花の壇 建物の中
花の壇 北側の建物の中
記念写真用のパネルが置いてあった。ついつい、顔を突っ込みたくなるよね。
奥の方にはステンレスのシンクもある。戦国時代の武将も意外と近代的な生活をしていたようだ(・・・んなわけないか。)

花の壇 建物の中space.jpg花の壇 建物の中
花の壇 南側の建物の中
こちらは、囲炉裏とかまど。こっちもガスコンロくらい置けばよかったのに・・・
どうでもいいけど、家族で暮らすには狭すぎる。戦の時の詰め所みたいなものだったのかな?


花の壇からは、堀切を隔てて山中御殿、その奥の山には七曲りと呼ばれる、お城に続く軍用道と三の丸の石垣が見える。

本丸は、もうすぐそこだ。

花の壇から見た山中御殿と三の丸
花の壇からみた山中御殿と三の丸
本丸方向へ行くには、花の壇平をいったん降りて、細い道をさらに登って行かなければならない。お城だからしょうがないけどね・・・





奥出雲おろちループと月山富田城・出雲大社 ④

月山富田城 ②(御子守口、千畳平)


駐車場から一番近い御子守口からお城に入って行くと、千畳平(せんじょうひら)への入り口があった。

千畳平は、富田城の一番外側に突き出した部分で、広大な曲輪になっており、戦の時には兵士が勢ぞろいをする場所だったそうだ。

千畳平入り口の階段
御子守口から千畳平へと登る階段 
地図で見ると、一番簡単にお城に入れる道は御子守口に見えたのだが、実際は道幅4mくらいの細くて急な坂道で、非常に歩きにくい。
しかも、入り口近くに千畳平、その反対側には戦になると兵士の待機場になったであろう神社やお寺もあるので、大軍で攻め込むのは難しそうだ。
第一次月山富田城の戦いでは、菅谷口がメインの戦場になったようだが、御子守口から侵入しようとしなかったのはなんとなく分かる気がする。

入り口から千畳平へは100mほどだが、雨に濡れた石畳はつるつる滑って非常に歩きにくい。
雨降りに来た人は要注意だ。

千畳平へと続く道
千畳平へと続く道
石畳は綺麗なんだけど、ものすごく滑る。
人には見せられないようなへっぴり腰でよたよたと歩く羽目に・・・
晴れた日を選んで来た方がよさそうだ。

兵士が勢ぞろいしたという千畳平はさすがに広い。案内板によると、縁の方には櫓が建てられていたそうだ。

千畳平
千畳平
かなり広い。ただ、1万5千人もいた尼子の兵が全員入ったかというと、少し厳しい気もする。主だった武将が入ったのかな?

千畳平の石垣space.jpg千畳平 案内板
左/千畳平の石垣  右/千畳平案内板
案内板によると、石垣の突き出した部分、数か所に櫓が築かれていたそうだ。ただの広場ではなく、お城の重要な防衛ラインだったようだ。

千畳平の縁に立ってみたが、植生が強くて町の方を見ることができなかった。しかし、櫓があったということは、昔は木も伐採されて、谷に近づく敵兵をここから狙い撃ちにしていたのだろう。

今のお城の姿からは想像もできないけどね・・・

月山富田城 ③(太鼓壇)


千畳平を奥まで進み、尼子神社の前を通って一段高い所に上がったところが、太鼓壇(たいこのだん)だ。

ここには、太鼓のつり下げられた建物が建てられており、士気を鼓舞したり、時刻を知らせたりするのに使われていたそうだ。

尼子神社
尼子神社
尼子三代城主と尼子十勇士の霊を祀っている。明治時代に建立されたものらしい。

太鼓壇には、山中鹿介(幸盛)の銅像が立っていた。ここで、戦国武将の中でも人気のある武将、山中鹿介について、簡単にまとめてみます。

山中鹿介(やまなかしかのすけ)は、通説によると1545年(天文14年)に生まれた。山中家は、出雲尼子の二代目清定の弟 幸久の末裔で、尼子の一門であったが、2歳のときに父親 満幸をなくし、かなり貧しい暮らしをしていたようだ。

武芸をよくし、第二次月山富田城の戦いでは品川大膳(だいぜん)を一騎打ちで破るなど活躍した。しかし、この戦いは、先に書いた通り、兵糧攻めに転じた毛利氏が勝利し、尼子氏は滅亡している(永禄9年(1566年)11月21日)。

山中鹿介の銅像space.jpg山中鹿介銅像 解説板
山中鹿介銅像
三笠山に懸かる三日月を拝して、「我に七難八苦を与え給え」と祈念したという逸話に基づき、昭和53年に建立された像。この像は、三笠山(富田城の川向かいにある山)の方に向かって建てられている。

尼子氏の滅亡により牢人となった山中鹿介は、新宮党事件の際に殺された尼子誠久の息子 尼子勝久を担ぎ出して、尼子家再興の戦いを始めた。新宮党事件の際に赤ん坊だった尼子勝久は、危うい所を助け出され、京都の東福寺で僧侶になっていたのだ。

毛利の九州攻めに乗じて勢力を伸ばした尼子再興軍だが、月山富田城を攻め落とせないでいるうちに、北九州から主力を引き戻してきた毛利軍と、富田城の南方10Kmほどの所にある布部山(ふべやま)で激突(元亀年元年(1570年)2月14日)。

数に勝る毛利軍が勝利し、その後尼子の勢力は次第に衰えて、1571年には尼子再興軍は出雲から一掃されている。

尼子十勇士スタンプラリーチラシ
尼子十勇士スタンプラリーチラシ
山中鹿介の銅像の傍には、尼子十勇士スタンプラリーのスタンプが置いてあった。
山中鹿介は、若武者達のリーダー的存在であり、部下に変な名前をつけていたらしい。それが尼子十勇士のもとになったようだ。
寺本生死介(てらもとせいしのすけ)とか、尤道理介(もっともどうりのすけ)とか、変な名前の者が多いため、実在性を疑問視されていたようだが、中には実在したことが確認されている者もいるそうだ。

その後も尼子再興のために戦った山中鹿介だが、最後は織田信長を頼り、羽柴(豊臣)秀吉のもとで信長の中国攻めに参加。

播磨上月城を奪取するも、毛利の大軍に囲まれて降伏。尼子勝久は切腹させられ、山中鹿介は捕えられて移送中、備中松山城の近くの阿井の渡しで殺されている。

主家最高のために生涯をささげ、不屈の精神で毛利に挑み続けた山中鹿介は、日本人の精神性にあっているのか、高く評価され、各地に供養塔や記念碑が建てられている。
また、ニッカウヰスキーの紋章のデザインにも、鹿介の兜が使われているそうだ。

自分も、彼の不屈の精神を少しは見習わないとね・・・




プロフィール

しんどいわ太郎

Author:しんどいわ太郎
いつの間にか、1年遅れになっちゃった・・・
別のブログを立ち上げる予定ですが、ここには季節ネタをちょくちょくあげて残しておくつもりです。
新しいブログにデータを移すのはめんどくさいからね・・・

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