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吉浦の桜

吉浦八幡神社と桜の木


姪っ子の入学式に出席した後、呉の実家に行った。冬用タイヤを替えるためである。

交換作業を終えた後、お花見をしようと吉浦八幡神社へと向かった。
吉浦八幡神社 拝殿
吉浦八幡神社 拝殿
小早川隆景が建立したという、意外と由緒正しい神社。子供の頃は、祭りに来たり、神社の裏手にあるグラウンドで遊んだりしたものだ。

桜には青空が似合うと思うのだが、今年は桜の咲く時期に雨が降り続き、まともにお花見もできなかった・・・

この日も、昼過ぎまで降った雨がようやく上がったものの、空はどんよりとうす曇り。すこし寂しいお花見になってしまった。

手水舎からの眺望
吉浦八幡神社 手水舎からの眺望
雨は上がったものの、空はどんよりとうす曇り。タイヤを替えているうちに夕方になってしまったので、余計に薄暗い。
天気が良ければ海が見えて、もう少しきれいにみえるんだけど・・・

今年の桜は開花も遅くて、4月7日だというのに、まだつぼみも残っていた。例年ならもう散っていてもおかしくないくらいなんだけどね。
吉浦八幡神社の桜
吉浦八幡神社の桜
ほぼ満開だが、まだつぼみも残る。
今年は、平年より3日、昨年より5日開花が遅かったらしい。体感的には、1週間くらい遅かった気がするのだが、気のせいかな?

桜がたくさん咲いた町民グラウンドの方へと行ってみたが、こちらの桜もほぼ満開。空は薄暗いが、桜の花はいつみても可愛らしい。

天候のせいなのか、有名な桜の名所ではないせいなのか知らないが、人っ子一人いないので、ゆっくりと桜を見て回ることができた。


吉浦第二町民グラウンドの桜space.jpg吉浦町民第二グラウンドの桜
吉浦町民第二グラウンドの桜
故郷の桜だし、いつまでもきれいに咲いて欲しいと思うのだが、木に近づいてよく見てみると、かなり傷んでいるのが分かる。大丈夫かなぁ。

吉浦町民第二グラウンドの桜space.jpg吉浦町民第二グラウンドの桜
吉浦町民第二グラウンドの桜
空は薄暗いけど、花びらに水滴が残っているのがなんかいい感じ。


ただ、ここに来るときに楽しみにしている、一つ向こうの尾根に咲く桜の木がまだ全く咲いていなかったのがとても残念だった。
空も曇って、海も見えないし、町の風景も寂しげだ。

この桜がきれいに咲いて、空も晴れていると、ここから見える景色は最高なんだけどなぁ・・・

一つ向こうの尾根に咲く桜space.jpg呉線の電車と吉浦駅
左/一つ向こうの尾根にある桜の木  右/吉浦駅と呉線の電車
左/一つ向こうの尾根(200mくらい離れている)にある桜の木。この桜の木は形もいいし、海が背景に入るのもいい。ここでは一番お気に入りの桜なのだが、残念ながらまだつぼみだった。右/この場所は、標高約40m。晴れていると、町の景色も違って見えるんだけどな。

でも、桜の花びらに着いた水滴はとてもきれいで、よく見ると、桜の花が映りこんでいる。

たまには、雨上がりの桜もいいなぁ。

吉浦の桜space.jpg桜と水滴
水滴の着いた桜の花
よく見ると、他の花が映っているんだけど分かるかなぁ??

桜の花と水滴space.jpg桜の花と水滴
水滴の着いた桜の花
葉っぱの上に乗った丸い水滴に桜の花が写りこんでいる感じの写真が撮りたかったんだけど・・・桜の木は背が高いから難しいよね。
葉っぱもないし・・・・・


水滴に映った花をきれいに撮るのは、私の腕ではちょっと難しかったけどね・・・・





★★★★★Data★★★★★★★★★★

1.お出かけした日: 2017年4月7日(金)
2.しんどいわポイント(しんどさを表わします):★☆☆☆☆
3.目的地までの所要時間:37分
4.走行距離:78Km +6273歩( 徒歩4.5Km)
5.消費エネルギー:ガソリン3.9ℓ+ 167.9Kcal (ガソリンはリッター20Kmで計算)
6.地図はこちら


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音戸のツツジと御手洗の町 ⑥

御手洗の町⑦(七卿落ち遺跡)


常磐町通りから海沿いの道へと出ると、港町らしい景色を見ることができる。

御手洗港space.jpg港町交流館
左/御手洗港  右/港町交流館
御手洗港には、竹原からの高速船が寄港するみたい。船で来るのも楽しそうだ。 右の写真の港町交流館は船の御手洗港の目の前にあり、船の切符を売っているみたい。御手洗には、大正、昭和初期に建てられた洋館風の建物も多い。

恵比寿神社の鳥居space.jpg少し離れた所から見た御手洗港
左/恵比寿神社の鳥居  右/恵比寿神社鳥居の近くから見た御手洗港
恵比寿神社の鳥居と本殿・拝殿の間には道路が造られたため、鳥居だけが海に突き出したような感じになっている。


そんな海沿いの道の道沿いに「七卿落ち遺跡」という遺跡がある。

「遺跡」といっても建物跡ではなく、豪商多田家(屋号:竹原屋)の屋敷だった建物であり、建物はしっかりと残っている。

七卿落ち遺跡
七卿落ち遺跡
1863年(文久3年)、尊王攘夷派の公家が攘夷を実現させるために天皇の大和行幸を計画したが、薩摩藩、会津藩などの公武合体派の説得を受けた孝明天皇から、禁足処分(外出禁止処分)とされた(8月18日の政変)。
尊王攘夷派の公家7名(三条 実美(さねとみ)(27歳)、三条西 季知(さんじょうにし すえとも)(53柴)、四条 隆謌(たかうた)(36歳)、東久世 通禧(ひがしぐぜ みちとみ)(31歳)、壬生 基修(みぶ もとおさ)(29歳)、錦小路 頼徳(よりのり)(27歳)、澤 宣嘉(のぶよし)(28歳))は、長州藩兵2000に警護されて京都を脱出。兵庫から海路で長州を目指した。
これが、七卿落ち事件である。

幕末の頃、「8月18日の政変」で失脚した尊王攘夷派の公家が京都を追われ、長州に落ち延びる際、立ち寄ったことから「七卿落ち遺跡」といわれているらしい。

七卿落ち遺跡space.jpg七卿落ち遺跡玄関の花頭窓
七卿落ち遺跡
アニメ「たまゆら」で麻音という少女の実家「のどか亭」のモデルになっている。左の写真の車輪や右の写真の玄関の花頭窓に見覚えのある人はいるはずだ。

今回、初めて内部に入らせてもらったのだが、豪商の屋敷だったという割にはそんなに広くもなく、意外と普通の造り。

七卿落ち遺跡内部
七卿落ち遺跡内部
呉市のホームページによると、8月18日の政変の翌年、京都の状況が好転したために上京を図ったものの、途中で長州藩が蛤御門(はまぐりごもん)の変に敗れたことを聞いてやむを得ず長州にひきかえすことにし、途中で御手洗に寄ってここ多田家の屋敷に一泊したという。8月18日の政変の後、長州に落ち延びる途中にここに立ち寄ったと書いてあるウェブサイトもあるのだが、どちらが正しいのかよく分からない。いつか調べてみようとは思っているのだが・・・・
呉市のホームページどおりだと、途中で病没した錦小路 頼徳と、生野の変の後、伊予に脱出した澤 宣嘉を除く5名がここに滞在したことになる。

海の見える縁側に座って、彼らがここで何を話し合っていたのか、どういう気持ちでいたのかを想像してみるのは結構楽しい。

七卿落ち遺跡縁側space.jpg七卿落ち遺跡縁側
七卿落ち遺跡縁側
左の写真は、中から外を見た写真。彼らにゆっくりと海を眺める余裕があったかどうかは謎だ。


御手洗の町⑧(歴史の見える丘公園展望台)


最後に、歴史の見える丘公園に登り、展望台から町を眺めることにした。

歴史の見える丘公園展望台
歴史の見える丘公園展望台
本当は歩いて登りたかったのだが、姪っ子が歩くのは嫌だと言って腕にしがみついてくるので、仕方なく車で登る。しんどい思いをして歩いた後の景色が最高なんだけど、分かってもらえないのかなぁ。

展望台からは、今まで歩いて見て来た歴史のある建造物や、静かな瀬戸内の海を眺めることができる。

歴史の見える丘公園からの眺望
歴史の見える丘公園展望台からの眺望
上から見ても、本当に静かな海だ。
昔、ここに北前船などの大型船をはじめとする多くの船が訪れ、港を埋め尽くすほどの船が停泊していたなんてとてもじゃないが信じられない。

ここが沢山の船が行きかう交通の要衝であり、交通の要衝であったがゆえに幕末には維新の動乱に巻き込まれ、坂本龍馬をはじめとする維新の志士たちが行き来していたなんて、本当に信じられない。

ほんの150年の間のことなのに、歴史の変遷なんて人間には想像もつかないもんだねぇ。

ガラス屋根の四阿
ガラス屋根の四阿
展望台から階段を降りたところにあるガラス屋根の四阿。
ここからは、四国の今治市や来島海峡大橋がよく見える。

展望台から階段を少し下に降りると、ガラス屋根の四阿があって、しまなみ海道の来島海峡大橋がよく見えた。

昔の人はこんな所に橋が架かるなんて思っても見なかっただろうね。

今から150年後は、どんな世の中になっているのかな?


ガラス屋根の四阿からの眺望
ガラス屋根の四阿からの眺望
左に見える半島のようなのが岡村島(今治市)の観音崎。
将来を悲観して身投げした遊女の遺体が観音埼にはよく流れ着いたらしいが・・・個人の幸・不幸なんて関係なく、時は流れていく。
まるで何事もなかったかのように・・・


★★★★★Data★★★★★★★★★★

1.お出かけした日: 2016年5月1日(日)
2.しんどいわポイント(しんどさを表わします):★★☆☆☆
3.目的地までの所要時間:170分(78km)(御手洗まで)
4.走行距離:152Km(自家用車) +9,448歩( 徒歩6.8Km)
5.消費エネルギー:ガソリン7.6ℓ(ガソリンはリッター20Kmで計算)+223.2Kcal(脂肪燃焼量31.8g)
6.地図はこちら



音戸のツツジと御手洗の町 ⑤

御手洗の町⑤(なごみ亭とおちょろ舟)


若胡子屋跡を出たのが午前11時15分。少し早いが、食堂が込むと嫌なので早めに昼食を取ることにした。

場所は「なごみ亭」。かつて船宿だった建物を利用して営業されており、メニューは「あなご飯」一本という、男らしいお店だ。

なごみ亭
なごみ亭
船宿というのは、旅館兼仲買問屋という感じの施設だったようだ。
なごみ亭のメニューは1500円(税別)のあなご飯一本。とてもおいしかったが、2人で3000円は貧乏なおじさんには少し辛い・・・・
でも、このお店は、アニメ「たまゆら」で、麻音という少女の実家「のどか亭」のモデルになったと言われているお店だ。ファンなら行かなくちゃね。

なごみ亭で料理を待つ間、トイレを借りに2階にあがったところ、面白いものを見つけた。
「おちょろ舟」の模型だ。

なごみ亭2階
なごみ亭2階
ちょっと手ぶれしているけど、左のほうに船の模型があるのが分かるかな?
おちょろ舟は、陸に上がることの許されない下級の船乗りたちのために、遊女たちが乗り込んで営業をしていた小舟。
お店で客を取るのは階級の高い娘で、出張サービスに回されていたのは低い娘たちだったようだ。

おちょろ船は、陸に上がれない船乗りに出張サービスをするために、遊女たちが使っていた小舟である。

いいことかどうかは別として、この船が港を漕ぎまわるのが御手洗の風物詩だったようだ。

このお店の近くに模型を作っている人がいるのは聞いていたけど、まさかこんなところで見られるとは思わなかったよ・・・


御手洗の町⑥(乙女座)


お昼を取った後、御手洗の町をぶらぶらと歩きながら、乙女座へと向かう。

乙女座は昭和12年(1937年)につくられた劇場で、演劇や活動写真の興行を行っていたという建物だ。

乙女座
乙女座
まだ町に勢いが残っていた時期に建てられた劇場。今は時々、イベントなどで使われているようだ。上下町にも翁座という劇場があったが、お金があるとこういう文化施設を造りたくなるものなのかな?

戦後は、主に映画館として昭和40年代まで使われ、その後はみかんの選果場として使われていたが、平成14年に今の形に復元されたそうだ。

今でも町のイベントや、映画の上映などで利用されているらしく、アニメ「たまゆら」では麻音という女の子が朗読会を開いたところとして有名である。

乙女座内部space.jpg乙女座内部
乙女座内部
乙女座内部は畳敷きに提灯の灯り。提灯の黄色い灯り(電気だけど・・)がなぜかノスタルジック。

乙女座2階席からの眺めspace.jpg乙女座2階席からの眺め
乙女座2階席からの眺め
上下町の翁座と同じく、格天井(ごうてんじょう)だが、シャンデリアとシーリングファンが付いている。
和モダンっていうやつなのかな?なかなかいい雰囲気だ。

・・・と思ったら、本当に「たまゆら」のキャラクター 桜田麻音のステージショーが開かれたようだ。

我が故郷 呉市の町おこしに協力してくれるとは、有り難いことだなぁ・・・・


御手洗の町⑦(常磐町通り)


乙女座を出て、御手洗の町のメイン通りである常磐(ときわ)町通りへと出る。

常磐とおり
常磐町通り
1666年(寛文6年)頃から港町として御手洗の街づくりは始まった。常磐町通りは、江戸時代からの建物が残る御手洗のメイン通りである。

この通りの突き当たりにあるのが旧柴屋住宅で、現在は町並み保存センターとして公開されている。

旧柴屋住宅
旧柴屋住宅
柴屋というのは、大長(おおちょう)村の庄屋、御手洗の年寄役を代々勤めた高橋家の屋号。文化3年(1806年)、伊能忠敬が大崎下島、豊島を測量に訪れた際に宿泊所に選ばれた。
また、文化7年(1810年)に広島藩八代藩主 浅野斉賢が遊覧のため来島した際にはここで休憩をとり、御手洗の本陣として利用されていたそうだ。

旧柴屋(高橋家)が代々御手洗の町年寄を勤めていたことから、伊能忠敬が測量に訪れた際には宿泊所に選ばれたということで、邸内には伊能忠敬関係の資料が展示されていた。

伊能忠敬は、文化3年(1806年)の2月30日から3月3日までここに滞在し、大崎下島と豊島の測量を行ったそうだ。

伊能忠敬測量の図space.jpg伊能図
左/伊能忠敬測量之図   右/伊能図
左は、伊能忠敬が測量しているところを描いたもので、非常に貴重なものらしい。しかし、衛星写真も何もない時代に恐ろしく正確な地図を作るなぁ

人工衛星とかGPSとか全くない時代に、しかもたった4日の測量でこんなに正確な地図を作れたっていうのは驚きだ。

まぁ、そもそもこんな鄙びた町に、伊能忠敬のような超有名人が来ていたってこと自体、そもそも驚きなんだけどね・・・



音戸のツツジと御手洗の町 ④

御手洗の町③(天満宮)


満舟寺から少し山側の道を歩くと、天満宮の参道前に出られる。

案内板によると、延喜元年(901年)、菅原道真公が九州に流される際に、この神社にある井戸に立ち寄って、手を洗ったという伝承を受けて創建された神社だそうだ。

なぜ、こんな沖合の島に立ち寄って手を洗ったのかは謎だが、この伝承が御手洗の地名の由来にもなっている。

天満宮 拝殿
天満宮拝殿
菅原道真公が手を洗ったことから、この町を「御手洗」と呼ぶようになったといわれていると案内版には書いてあるのだが、御手洗の名の由来には他に2説ある。①神功皇后が三韓征伐の際にこの地で手を洗った②関前灘で嵐にあった平清盛が手を洗い、口をすすいで観音様に手を合わせたところ、たちまち風がやんで助かったので、この地(満舟寺)に行基作の十一面観音を安置し、ここを御手洗と名付けた、というものである。
何故みんなが手を洗いたくなるのか、謎である・・・

拝殿の裏手には、菅公が手を洗ったという井戸と、本殿の下をくぐることのできる可能門という門(?)があり、ここでお願い事をすれば願いが叶うという。

菅公の井戸space.jpg可能門
左/菅公の井戸  右/可能門
左の写真が菅原道真が手を洗ったという井戸。この水で書初めをすると字がうまくなるらしい。
右の写真が可能門。本殿の下にあるこの可能門から願い事をすれば、神様が願い事を叶えてくれるのだ。


姪っ子の頭が(ついでに自分のも)少しでも良くなるようにお祈りしておいた。

今のところ、効果は微妙だけど・・・

御手洗の町④(若胡子屋跡)


天満宮から少し満舟寺の方に戻ると、若胡子屋跡を見ることができる。

港として栄え、多くの船乗りたちが訪れた御手洗には、藩から許可を受けたお茶屋が4件あり、最も大きかったのがこの若胡子屋である。

最盛期には100人以上の遊女を抱えていたといわれており、この辺りもたいそうな賑わいだったという。

若胡子屋跡
若胡子屋跡
栄華を誇った若胡子屋も、御手洗の港町としての衰退とともにその姿を消し、明治17年には隆法寺というお寺になり、その後は町の会館として利用されたという。・・・て、一昨年もおんなじ事を書いた気がするなぁ。

港町としての御手洗の衰退とともに廃業した若胡子屋は、お寺として使用され、建物の中は大きく改装されてしまったが、その外観と奥の和室部分や裏庭に、往時の面影を偲ぶことができる。

若胡子屋 奥の和室
若胡子屋 奥の和室
中は多くの個室に分けられていた若胡子屋も、お寺になった際に、部屋が取り払われて広いお堂になってしまった。だけど、この奥の和室部分はおそらく住居として残された物と思われる。
凝った意匠の施された欄間や出窓も見事だが、天井等には当時薩摩藩から輸出を禁止されていた屋久杉が使われており、当時の若胡子屋がいかに金と権力を持っていたかが分かる。

立派な意匠の施された欄間や、五色の石が練りこまれた裏庭の土塀、樹齢300年というヒョンの木(イスノキ)をはじめとした立派な木々を見ると、いかに若胡子屋が財力を持っていたかが窺われるのである。

若胡子屋裏庭
若胡子屋 裏庭
土塀に塗り込まれている五色の石は薩摩藩から取り寄せた桜島の溶岩らしい。写真の真ん中付近に移っている大木が樹齢300年のヒョンの木。

しかし、ここで働いていた(働かされていた?)のは、貧しさゆえに幼くして身売りされた少女たちであり、ここにはお歯黒事件や少女達の悲しいエピソードが漫画などで紹介されていた。

遊女たちの物語
遊女たちの物語
館内には、幼くして身売りされた少女たちの悲しい物語が紹介されている。実際、将来を悲観して海に身投げするなど、悲しい最期を遂げる者も多かったらしく、御手洗の対岸にある岡村島の観音埼には遊女の墓が沢山あるという。御手洗にも見知らぬ地に連れてこられて亡くなっていった遊女のために墓地が造られ、おいらん公園と名付けられている。

お歯黒事件については、一昨年ご紹介したので、詳しいことは省くが、お歯黒の付きが悪くていらついた花魁が、お付きの禿(かむろ)の口の中に煮え立ったお歯黒を流し込んで、殺害してしまった事件である。

殺害現場となった2階の部屋には、亡くなった禿のお歯黒の手形が今でも残っていて、裏庭には加害者の花魁、八重紫のお墓が残されている。

お歯黒事件の起きた2階の部屋
お歯黒事件の起きた2階の部屋
一応、お歯黒事件をもう一度書いておきます。
上客からお呼びのかかった花魁がお歯黒をつけようとしたがなかなかうまくつかず、いらだちのあまり、側にいたカムロ(お付きの少女)の口の中に煮えたぎったお歯黒を注ぎ込んだ。
唇を食いしばり、虚空をつかんでのけぞったカムロの口からは、おはぐろ混じりの黒血が流れた。支度部屋の壁にもたれるようにして死んでいったカムロの顔には、深い恨みがこもり、つり上がった眼尻からは一筋の涙が頬ををつたわっていったという。
それからというもの、ひとり鏡に向かって化粧をする花魁の鏡には、かすかに滅入るような声で、「もーしおいらんえ、おはぐろ付きなんしたか」とカムロの影が映るようになった。
さすがに今全盛のおいらんもいたたまれなくなり、前非を悔いて、四国八十八ヶ所をめぐってカムロの霊を弔おうと思い立ち、今治へ渡った。
すると、「もーし、おいらんえ、それでは此処から一人で行きなんせ」と言い残して、カムロの影は消えていった。
それ以来若胡子屋の遊女は百人になると、必ず一人死んで、ついに九九人の遊女で押し通したという。

遊女達の悲しいお話というより、怪談っぽくなっているのが気になるのだが、思わず人殺しをしてしまうくらい精神的に追い込まれていたということなのかな?

お歯黒事件で残された壁space.jpg八重紫の墓
左/お歯黒事件で残された壁   右/事件の加害者である八重紫の墓
左の写真の解説:真ん中の方に禿が苦しみのあまり壁に手をついた手形が残っていて、消そうとしても消えなかったといわれている。周りの文字は遊女たちの落書き。彼女たちは文字の読み書きもできたそうだ。
右の写真の解説:裏庭に造られた八重紫の墓。むしろ、禿の墓を作るべきだと思うのだが・・・


これが、遠い昔の話ではなく、ほんの150年ほど前の話だと思うと少しぞっとするなぁ。

今の日本も格差が激しくなってきているけど、貧しさゆえに身売りすることなんてことだけは絶対に起きないようにして欲しいな。




音戸のツツジと御手洗の町 ③

御手洗の町 ②


住吉神社でお詣りを済ませて、御手洗の町に入って行く。

路地の間から見える海を眺めながら数分歩くと、満舟寺というお寺に到着。

路地の間から見える海
路地の間から見える海
海のすぐそばに街が広がっているので、路地の間からは海を見ることができる。
なぜか懐かしさを覚える風景だ。

満舟寺は、高い石垣が特徴のお寺で、お寺の案内板によると、1751年(寛延4年)に真言宗古儀派のお寺として藩の認可を受けたそうだ。

満舟寺 案内板
満舟寺 案内板
満舟寺のあった場所は、①もともと海に面していたこと、②高い石垣が築かれていること、③もともと御手洗に水軍の拠点があったことから、なんらかの水軍拠点だったと考えられているらしい。
一説によると、この石垣は四国攻めの際、加藤清正が築いたものだといわれている。
ここには、栗田樗堂のお墓もある。潮待ち、風待ちの港として栄えた御手洗の町は、多くの文人を招いたが、小林一茶とも親交があったという俳諧師 栗田樗堂も晩年を御手洗の町で過ごした。

ここには、俳諧師 栗田樗堂のお墓や琉球使節の書いた寺額の飾られた観音堂があり、港として栄えた頃の御手洗に、多くの文化人や使節団が訪れたことを窺い知ることができる。

満舟寺の高い石垣space.jpg琉球使節の書いた寺額のかかった観音堂
左/満舟寺の高い石垣  右/琉球使節の書いた寺額のかかった観音堂
石垣を見る限り、ちょっとした砦のようだ。加藤清正が築いたものかどうかは分からないが、水軍施設だったといわれるとそんな感じに見えてくる。

前回来た時は触れなかったのだが、境内には亀趺墓という亀の台座に載せられたお墓がある。亀趺墓は、大名家のお墓に使われている例はあるものの、庶民のお墓に使われているのは、全国的にも珍しいものらしい。

どういう経緯で作られたのかは分からないけど、やっぱりお金と力を持っている人が多く住んでたからこそ作られたんじゃないかな。

亀趺墓space.jpg浅野長治公の建てた神道碑
左/亀趺墓  右/三次の鳳源寺にあった神道碑
右の写真は三次の鳳源寺にあった神道碑
亀趺は、もともと功徳や功績を称えた石碑をのせるための台座だったもの。亀といっても池で泳いでる亀ではなく、龍の9匹の子供の一人で神獣である。贔屓という名前で、贔屓の引き倒しの語源にもなったらしい。
左の写真がその亀趺墓だが、神獣っていうか、なんとなくガメラっぽい・・・

ところで、この満舟寺には、アニメにも登場した足の長い小学生の標識がある。
足の長い小学生の標識
足の長い小学生の標識
アニメ「たまゆら」にも出ていた足の長い小学生の標識。
誰が作ったのかは知らないが、なかなかのナイスセンスだ。
来るたびに、置いてある場所が変わっているのは謎である・・・

いろんな文化財の眠る満舟寺だけど、これも文化財の一つといっていいのかな?




プロフィール

しんどいわ太郎

Author:しんどいわ太郎
いつの間にか、1年遅れになっちゃった・・・
別のブログを立ち上げる予定ですが、ここには季節ネタをちょくちょくあげて残しておくつもりです。
新しいブログにデータを移すのはめんどくさいからね・・・

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