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柳井の街並み~金魚ちょうちんの町~⑥

商家博物館 むろやの園③ (本蔵)


主屋の土間を通って敷地の中へ。

大きな甕の置いてある庭を、本蔵、勘定蔵、米蔵、道具蔵、味噌・醤油蔵などの多くの蔵が囲っている。

井戸space.jpg家族風呂
左/井戸  右/家族用の風呂
庭に出る途中に、井戸やお風呂、トイレなどがある。お風呂は五右衛門風呂。お金持ちなのに、結構質素なお風呂だ。

中間部屋space.jpg庭と庭を取り囲む蔵
左/中間部屋  右/庭と蔵
左/中間は、武士の身の回りの雑務に従事した者。小田家は商人でありながら、侍の身分となったので、中間の部屋が造られた。 右/写真の左側が中間部屋のある長屋風の建物。右には蔵が立ち並んでいる。


その中でも、一番立派な2階建ての蔵が本蔵で、中には貴重品を保管していたそうだ。

今は、資料館として生活用品が展示してあるのだが、時計やカメラなどの貴重な品が展示されていた。

本蔵space.jpg本蔵からの眺望
左/本蔵  右/本蔵2階からの眺望
右の写真で、右側に並んでいるのはすべて小田家の蔵。一番奥の方に写っている病院の手前の屋根くらいまでが小田家の敷地だ。我が家の何十倍あることか・・・・

名刺版箱型カメラspace.jpg蓄音機
左/名刺版箱型カメラ  右/蓄音機
チェリー2号は、小西本店が明治37年1月に発売を開始したという乾板写真機。湿版と比べて露光時間が短く、軽便な写真機は当時大人気だったらしい。


印籠と根付space.jpg弁当容器
左/印籠と根付(ねつけ)  右/弁当容器
弁当容器はかなり大きい。大人数で行楽にでも行っていたのかな?

商家博物館 むろやの園④ (勘定蔵、米蔵)


勘定蔵には、士分に取り立てられた小田家に伝わる鎧や弓、鉄砲などの武具や、旅行に使った駕籠や弁当箱などが展示されている。

勘定蔵、米蔵space.jpg勘定蔵内部
左/勘定蔵と米蔵  右/勘定蔵内部
米蔵は米を保管していたんだろうけど、勘定蔵ってなにを保管していたんだろう?

小田家に伝わる鎧space.jpg士分に取り立てられた小田家の説明
左/小田家に伝わる鎧  右/士分に取り立てられた小田家の説明文
士農工商、最低の位置に属していた商人が士分に取り立てられるのは異例のことだろう。

旅に使った道具space.jpg何度も旅をしたという小田家の説明
左/旅に使った道具  右/小田家の旅についての説明文
小田家当主は何度か旅に出たらしい。歩いたり、駕籠に乗ったりで大変だったんだろうけど、違う土地に行っていろんな物を見聞きするのは楽しかったんだろうなぁ。

米倉には、茶碗や壺などの陶磁器のほか、魚箱やアイスクリーム製造機などの日用品が展示されていた。

米蔵内部space.jpg魚箱(佐嘉奈箱)、鮨桶など
左/茶碗や壺など  右/魚箱(佐嘉奈箱)、鮨桶など
佐嘉奈箱(魚箱)は、お祝いなどの時に、魚を入れて届けていたらしい。初めて見たけど、他の地方でもあった風習なのかな?

はえ捕り器space.jpgアイスクリーム製造機
左/ハエ捕り器  右/アイスクリーム製造機
ここにもあったアイスクリーム製造機。ちょと小ぶりだけど、家庭用なのかな?


いろいろな展示品があったけど、一番気に入ったのは携帯用炊飯器。

キャンプ用品で販売したら、売れるかも・・・

携帯用炊飯器
携帯用炊飯器
モンベルさんとか、作ってくれないかな?日本人はやっぱり米だよね。

商家博物館 むろやの園⑤ (半閑舎)


蔵の側には、「半閑舎」と名付けられた離れが立っている。

説明文によると、約200年前に上客のために建てられた離れで、岩国藩の藩主 吉川公も宿泊されたらしい。
半閑舎space.jpg半閑舎
左/半閑舎北側   右/半閑舎南側
家の中に、庭付き一戸建てがあるというのもすごいなぁ。

半閑舎
半閑舎 玄関
最初は平屋だったが、文久3年(1863年)に2階を増築したものらしい。玄関に板敷の式台がついた式台玄関になっている。武家屋敷にならったものだろう。

この半閑舎の裏門から、さらに庭を越えた先にあるのが裏長屋門。

当時は、この門を出るとすぐ海だったらしく、商品の搬入・搬出に使われていたのだそうだ。

裏長屋門
裏長屋門
昔はこの門は海に面しており、ここから商品を搬出、輸送していったそうだ。

今は誰も住んでいない建物だけど、実際に人が生活していた建物や生活用品を見ていると、この家が賑わっていた頃の様子が頭の中に浮かんできて、個人的にはとても楽しい。この家だけで2時間以上も彷徨って、デジカメの電池もなくなってしまった。

多分、万人受けする施設ではないとは思うし、お客さんも少なかったけど、もっとたくさんの人に興味をもってもらえるといいなぁ。



今回のルート

★★★★★Data★★★★★★★★★★

1.お出かけした日: 2017年3月5日(日)
2.しんどいわポイント(しんどさを表わします):★★★☆☆
3.目的地までの所要時間:1時間46分
4.走行距離:173Km +13153歩( 徒歩9.6Km)
5.消費エネルギー:ガソリン8.65ℓ+ 335.2Kcal (ガソリンはリッター20Kmで計算)
6.地図はこちら
7.行きは廿日市ICから玖珂ICまで高速利用。帰りは下道のみ



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柳井の街並み~金魚ちょうちんの町~⑤

商家博物館 むろやの園 ①


柳井の商家を見たかったので、お昼ごはんを済ませた後、「むろやの園」という民族博物館へ行くことにした。

むろやの園
むろやの園 案内板
豪商 小田家の屋敷を、民俗学者 宮本常一氏の指導のもと、そのまま博物館としたもの。名前は、小田家の屋号「室屋」からきている。屋敷は「鰻の寝床」と呼ばれる、縦長の敷地割りとなっており、間口は東西に20m、南北に約119mあり、屋敷面積は約2,400㎡、建物面積は約1,500㎡で、その規模は日本の町家では屈指の大きさである。

「むろやの園」は、豪商 小田家の屋敷を博物館にしたもので、その名前は小田家の屋号「室屋」からつけられたものらしい。

南北に119mもの長さのある巨大な敷地にある建物と家財道具は、そのまま資料館の展示物とされていて、柳井の商家の暮らしぶりをうかがい知ることができる。

むろやの園 模型space.jpgむろやの園 側面
左/むろやの園模型  右/むろやの園側面
屋敷が大きすぎて、カメラに収まりきらない。室屋(小田家)の繁栄のほどをうかがい知ることができる。

屋内には、「室屋」の由来も展示してあったが、それによると、もともとは菅笠や反物を扱う商売をしていたものが、後に油業を営むようになり、中国地方でも有数の油商となったものらしい。

むろやの由来
むろやの由来
小田家の先祖は、織田信長の家老であった織田大炊頭清範。元禄元年(1688年)、小田善四朗が柳井津で商売を始めたのがむろやの始まりで、菅笠や反物などを扱っていた。その後、油業を営むようになり、中国地方で有数の油商となった。最盛期には、20石から125石船を50隻も従え、西は九州五島列島から、東は大阪まで、手広く商売を行っていたそうだ。また、岩国吉川公のもと、3代目善四郎のときに帯刀を許され、4代目で士分となり、6代目のときには大蔵にまで昇進している。天保10年(1839年)に油業を廃業して大地主となり、多い時には、田畑を60町歩(180,000坪)も所有していたそうだ。

岩国藩の藩主吉川家から、士分にまで取りたてられたという豪商の屋敷はとても広くて、歩いているうちに、どの部屋がどことつながっているのか分からなくなってしまうくらいだった。

室屋 屋敷図
むろやの園 屋敷図
この屋敷は、享保17年(1732年)頃建てられたものらしい。
実際に歩いてみると、広すぎてどことどこがどうつながっているのか、分からなくなってくる。この図を写真で撮って、時々眺めながら歩いていた。こんなに広いのは、吹屋の旧片山家住宅以来だ。

これだけ広いと建物を維持するだけで大変だと思うけど、昔の人の暮らしぶりを伝える文化遺産として、いつまでも残してもらいたいなぁ

商家博物館 むろやの園 ②(主屋)


広すぎる住宅に少し戸惑いながらも、早速通り沿いにある主屋の部分から、見学開始。写真も自由に撮れるのが嬉しい。

まずは、見世の部分。思ったよりも簡素なのは、室屋が営んでいたのが油業で、商品を展示する必要がなかったからだそうだ。

室屋 見世の部分
むろやの園 見世部分
写真右側が通り。通り沿いには窓、見世には帳場がある。油業を営む室屋では、商品を陳列する必要がなく、商品は奥に保管して、見世ではお茶をすすめて商談をしていたそうだ。

見世のすぐ裏にある居間は、大事な商談や上客などを招いて商談をすすめるための部屋だったそうだ。

その隣の部屋が納戸で、主人夫婦の寝室として使われていたらしい。こんな通りの近くで、主人が寝起きしていたというのは少し驚きだが、治安がよほど良かったのだろうか。

居間と納戸
見世のすぐ裏にある居間と納戸
写真手前の部屋が居間で、大事な商談をするときに使われていたそうだ。その一つ奥の屏風の建てられた部屋が納戸。納戸というのは、今は物置の意味だが、昔は寝室を指しており、ここは主人夫婦の寝室だったそうだ。
吹屋の旧片山家住宅では、主人の寝室は一番奥にあったが、室屋では通りの一番近くの部屋だ。よほど治安が良かったのか、商売に命を懸けていたのか・・・

その隣は中の間。食事をする部屋だったらしい。この部屋には隠し階段があり、2階へとつながっている。

中の間space.jpg隠し階段
左/中の間 右/隠し階段
書のある襖が、隠し階段の入口。階段の上部には隠し戸棚もある。

ちなみに、2階はこんな感じ。

2階space.jpg2階
左/2階 右/2階にある部屋(お稽古に使われてたのかな?)
2階には、下男部屋、女中部屋、家族の部屋(?)と、広いスペースがあり、照明器具や暖房器具の展示がされていた。このスペースは何に使われていたのだろう?

下男部屋space.jpg女中部屋
左/下男部屋 右/女中部屋
女中部屋は吹き抜けになっていて、冬場は寒そうだ。それより、女中部屋と下男部屋が隣りあっていて大丈夫なのか、少し心配。

奥の部屋には、床の間と立派な絵の描かれた天袋が見られる。この部屋からは離れに通路が伸びており、離れには上客用の風呂場が造られていた。

この部屋は客間として使われていたのかな?

床の間のある部屋space.jpg天袋
左/床の間のある部屋 右/天袋
床の間のある部屋と、その隣の広い和室には、炉畳が見える。茶室兼用なのか?天袋の戸絵は、客や季節によって塗り替えていたらしい。なんか、もったいないなぁ。

主屋から離れへの通路space.jpg上客用の風呂場
左/離れに続く廊下 右/上客用の風呂場
左/細い通路の両脇中庭になっていて、庭の景色を楽しみながら歩くことができる。 右/上客用の風呂場は脱衣場が畳敷きになっている。

いろいろな展示物があって、とても興味をそそられたのだが、一番気になったのは七代目の時に長女と三女の初節句に贈られたという雛人形の大きさの差。

七代目の時に購入されたひな人形
七代目の時に、長女と三女の初節句に贈られたというひな人形
左が長女の初節句に贈られたひな人形で、右の小さいのが三女の初節句に贈られたひな人形。
小さいのも造りはしっかりしていて、よく出来ているんだけど、大きさの違いは歴然。
「明治時代の家族制度の特徴が見られます」とか、書いてあるけど、子供相手にこれはないわ・・・

ちょっと、ひどくない・・・


今回のルート


柳井の街並み~金魚ちょうちんの町~⑥

湘江庵と柳の木


光台寺のある丘を降り、柳井の地名のもととなったという湘江庵に入ってみた。

湘江庵山門space.jpg湘江庵 御堂
左/湘江庵山門 右/湘江庵 御堂
ここ湘江庵は、江戸時代から町人が集まって、句会やお茶をする公民館のような役割を果たしたそうだ。御堂には、日本三大虚空蔵菩薩のうちの一つである十一面観音像が祀られている。

境内には、豊後の国から都の用明天皇のもとへ行く途中、嵐のために流れ着いた般若姫が水を飲んだという井戸と、水のお礼にと刺した柳の楊枝から育ったという柳(現在5代目)が生えている。

この柳の楊枝と井戸で、この地が「楊井」と呼ばれるようになり、そこから「柳井」に変わったそうだ。

湘江庵境内の井戸space.jpg湘江庵境内の柳(5代目)
左/湘江庵境内の井戸 右/湘江庵 境内の柳の木
柳の楊枝と井戸で「楊井」、そこから「柳井」に変わったそうだ。ちなみに、独歩の旧家に行く途中にあった姫田川は、般若姫が手を洗ったことから、「姫手川」と名付けられ、それが「姫田川」に変化したものらしい。

湘江庵の井戸の水(?)
湘江庵の井戸の水(?)
般若姫の伝説は、まとめるとこんな感じかな?
豊後の国(大分県)の満野長者の娘 般若姫が、用明天皇のもとにいくために、船で都にのぼろうとしたところ、途中で嵐に会い、柳井に流れ着いた。喉の渇きを訴えた姫に、井戸の水を差しあげたところ、「おいしい」とたいそう喜び、お礼にと井戸のそばに、中国の明帝大王(みんていだいおう)から送られた不老長寿の柳の楊枝を挿したところ、楊枝は一夜にして芽を吹き、柳の大木となったと伝えられている。
般若姫の伝説は、平生町観光協会ホームページの般若姫伝説に書かれているので、読んでみてください。
ところで、井戸の水を飲むと姫のように美しくなれるということで、井戸の側にある龍の口から出ている水を飲んでみたのだが、全然美しくなった気がしない。
救いようのない顔なのか?


柳井の隣の平生(ひらお)町には、用明天皇が般若姫の菩提を弔うために建てたといわれる般若寺があり、般若姫のお墓もあるらしい。

ものすごい山の中にあるから、登るのが大変そうだけど、一度行ってみたいなぁ。


麗都路通り(レトロどおり)


光台寺付近を散策しているうちにお昼になったので、昼食を食べるために柳井駅前のメイン通りに出てみた。

柳井駅前の通りは、レンガが敷き詰められ、麗都路通りと名付けられている。明治、大正期をコンセプトにデザインされたものらしい。

麗都路通りspace.jpg麗都路通りの郵便ポスト
左/麗都路通り 右/麗都路通りの郵便ポスト
麗都路通りというネーミングセンスがレトロな気がしなくもない(1970年代の「夜露死苦」的な感じ?)のだが、レンガ色で統一されているので、結構きれい。郵便ポストも、町並み資料館(旧周防銀行)の形をしていてお洒落。


麗都路通りには、金魚ちょうちんのモニュメントが置かれた公園があり、金魚ちょうちんにかける町の意気込みが感じられる。

金魚ちょうちんのモニュメントspace.jpg小さな公園の四阿
左/金魚ちょうちんのモニュメント 右/公園の四阿
柳井川の橋の側にある小さな公園には、金魚ちょうちんのモニュメントと、金魚ちょうちんのタイル絵の飾られた四阿がある。柳井といえば、やっぱり金魚ちょうちんだよね。

また、オルゴールの館グリムという、麗都路通りのシンボル的な建物もあって、町の雰囲気づくりに一役買っている。

思ってたより少し(かなり?)小っちゃかったけど・・・・

オルゴールの館グリムspace.jpgオルゴールの館グリムのオルゴール
左/オルゴールの館グリム 右/オルゴールの館グリムのオルゴール
日本唯一のオルゴール作曲家橋本勇夫さんの曲を奏でるオルゴール。しかし、この建物、写真で見るとよく分からないけど、とても小さい。観光案内のパンフレットを見て、オルゴール博物館だと思っていたのに・・・

結局、レトロ通りでは食事のできる店を見つけることができず、町を彷徨っているうちに喫茶店「れーがん」というお店にたどり着いた。

お昼を食べるために、2時間も町を彷徨って疲れちゃったけど、喫茶店「れーがん」さんでは、新柳井名物の「甘露醤油ラーメン」が食べられたから、よしとしましょう。


今回のルート




柳井の街並み~金魚ちょうちんの町~⑤

町並み資料館


しらかべ学遊館で国木田独歩の資料を見て、独歩ゆかりの地を歩いてみたくなった。

まずは、町並み保存地区の外れにある町並み資料館だ。

町並み資料館(旧周防銀行本店)
町並み資料館(旧周防銀行本店)
明治32年(1899年)、柳井津町の有力者33名が資本金30万円を出し合って作った周防銀行本店建物として明治40年(1907年)に竣工した。
設計者は明治期の洋風建築を多く手掛けた長野宇平治氏の弟子 佐藤節雄氏で、明治期の貴重な洋風建築の建物として、平成12年に国の有形登録文化財に指定されている。
周防銀行は、明治41年(1908年)には、資本金125万円を誇り、県下最大の銀行となったが、大正3年(1914年)に起こった取り付け騒動により休業に追い込まれ、昭和2年(1927年)に同行は解散となり、営業免許取り消し命令を受けた。


この建物は、周防銀行本店として明治40年(1907年)に建てられたものだが、明治25年(1892年)に独歩一家が、この辺りに越して来たことから、独歩の胸像と、独歩がその頃に書いたという「読書の戒(いましめ)」の碑が建てられている。

国木田独歩 胸像
国木田独歩 胸像
司法省の役人となり、中国地方を転任した父とともに、独歩も20代前半の数年間、柳井で過ごした。両親が、明治25年2月、町並み資料館の立つ辺りにあった、柳井津金屋の堀江家に越して来た縁で、胸像が立てられたらしい。
独歩の22歳の頃の写真をもとに造られたという像には、「山林に自由存す」という独歩を象徴する詩の一節が刻まれている。
また、傍には、独歩が田布施町麻里布の浅海家に仮寓していた明治24年に、近所の石崎ゆり・みねの二少女によく勉強するようにと書いた読書の戒めの碑が建てられている。碑には、「書を読むは多きを 貪るにあらず 唯章句熟読を要す 静思すること久しければ 義理自然に貫通す」と書かれている。

資料館の中は、ひな祭り期間中のため、1階には多数のひな人形が展示され、2階は柳井出身の歌手 松島詩子の記念館ととして使われていた。

松島詩子さんのレコードや衣装
松島詩子さんのレコードや衣装
松島詩子さんは、明治38年5月12日生。山口県立柳井高等女学校出身で、小学校教師、広島県立忠海高等女学校教師などを勤めたが、音楽の勉強のために上京。
昭和7年4月に日本コロムビアより、曲名「ラッキーセブン」、芸名「柳井はるみ」でデビューし、舞台では、シャンソン、カンツォーネ、ポピュラーソングなどを愛唱したという。
昭和12年、「マロニエの木蔭」がヒットし、昭和26年紅白歌合戦にも出場。以後、第11回まで10回の出場を果たしている。代表曲は、「マロニエの木陰」、「黒き薔薇」、「花の溜息」など。

1階の片隅に、当資料館の新しい目玉、「お鐘金魚」があったので、早速コインを投入。金運のお守りにしたのだが、効果のほうはどうかなぁ???

お鐘金魚
お鐘金魚
平成24年に設置されたという金色の金魚ちょうちん型「金運増幅器」。銀行だった頃の金庫の前に鎮座している。
メタルスライムのようなレア感を漂わせるボディーにお金を入れると、風鈴のような心地よい音色とともに、お金が出てくる。
このお金をお守りにすると、金運上昇間違いなし。
まれに、体内にお金がとどまり、出てこなくなることがあるらしいが、その場合は、側にある「幸運を呼ぶ棒」で掻き出せば、さらに幸運をつかむことができるのだ。
ただ、取り付け騒ぎで潰れた銀行の金庫だから、よく考えてみると微妙・・・・・

もともと、あんまりお金に縁がないから、よく分かんないや・・・


国木田独歩旧宅(国木田独歩記念館)


次は、いよいよ国木田独歩が住んでいたという家を見に行くことにした。

国木田独歩の旧宅は、町並み資料館から約200mほど東に歩いたところにある、姫田川という幅5mほどの小さな川を渡った丘の上にある。

火伏地蔵space.jpg国木田独歩旧宅への道
左/火伏地蔵  右/国木田独歩旧宅前の道
左/独歩旧宅に行く途中にあった火伏地蔵尊。江戸時代に4度の大火を経験した商人たちが、町に建てたいくつかの火伏地蔵のうちの一つ。 右/国木田独歩旧宅前の道。結構細い。

姫田川沿いに建てられたお地蔵さまの側を通り、細い道を100mほど上がったところに、独歩の旧宅は静かに立っていた。

その外観は、こげ茶色の瀟洒な和風建築で、明治の文豪が住んでいたにふさわしいものだったのだが、想像していたより、少し(かなり?)小さい・・・・

意外と質素な暮らしぶりだったようだ。

国木田独歩旧宅
国木田独歩旧宅
文豪の旧宅ということで、大きな家を想像していたのだが、なんか、小さい。明治時代の役人の給料は安かったのかな?
もともとは、姫田川沿いの市川家の当主増太郎さんが、自宅の庭の真ん中に新築の家を建てて、独歩一家に貸し与えたもので、大正時代に市川家が病院となった際に、ここに移築されたものらしい。
個人宅の庭に建てられた離れだと思うと大きいけど、家族で住むには少し狭いと思う。
独歩一家は、ここに明治25年~27年の間住んでいたそうだ。


しかし、独歩は、柳井のことを「国許」と呼び、柳井に帰ることを帰国すると言っていたそうなので、ここでの生活が意外と気に入っていたのかもしれない。

国木田独歩旧宅玄関space.jpg独歩旧宅 玄関前の石碑
左/独歩旧宅 玄関  右/玄関前の石碑
写真では分かりにくいが、玄関を入ってすぐに8畳くらいの和室があり、その向こうはすぐに庭。つまり、一室のみ。庭は結構立派だけど、移築された建物なので、もともとはどんな風だったかよく分からない。

独歩旧宅 庭space.jpg国木田独歩旧宅
左/独歩旧宅 庭  右/独歩旧宅 庭から見た家の様子
部屋には、独歩の胸像や、様々な資料が置かれている。独歩が愛用した月琴も展示してあるらしいのだが、よく分からなかった。

独歩が柳井を題材にした小説には、「置き土産」、「少年の悲哀」、「帰去来」、「欺かざるの記」などがあるが、「少年の悲哀」は、ここに住んでいたころの経験を題材にして書かれたものらしい。

光台寺(わんわん寺)


独歩旧宅のすぐ近くに、光台寺(こうだいじ)というお寺がある。

独歩は、上記旧宅に住んでいたころ、光台寺と、その先にある妙見社へ散歩をしていたそうなのだが、その散歩の途中で出会った美しい女性が「少年の悲哀」のモデルになっているそうだ。

私も、旧宅を出て光台寺の方へとぶらぶらと歩いてみた。

独歩の散歩道
独歩の散歩道
ここで出会った女性が「少年の悲哀(こどものかなしみ)」のモデルになっているそうだが、本人は知っているのかな?
貧しさゆえに朝鮮に連れて行かれた気の毒な女性という設定なので、知っていたとしても、あんまり嬉しくないかも・・・

光台寺の山門は下関の赤間神宮にある水天門を思い起こさせる独特な形をしていた。

この門の下で手を叩くと、「ワンワン」と反響することから、わんわん寺ともいわれているらしい。

犬の神様でも祀っているのかと思ったよ・・・

光台寺楼門
光台寺楼門
楼門の下で手を叩くと、「ワンワン」と反響することから、「わんわん寺」と呼ばれるらしい。別に、犬が祀られているというのではない。
楼門の真ん中には穴が開いているのだが、これが音を反響させるのだろうか。

独歩が通っていたという妙見社を見てみたかったのだが、お寺の中には、大きな幼稚園が建てられていて、中に入ることはできなかった。

この辺も、独歩のいた頃とはだいぶ様変わりしているんだろうなぁ。

山門脇の梅とメジロspace.jpgいぬいとみこ文学碑
左/山門脇の梅とメジロ 右/いぬいとみこ文学碑
左/山門脇の梅には、メジロの姿も。 右/いぬいとみこも柳井ゆかりの文学者。石碑には、いぬいとみこ作「光の消えた日」の一節が刻まれている。しかし、独歩の石碑は見つけられなかった。どこにあるのかな?

独歩が妙見社に登って眺めていたという柳井の街並みを見ることはできなかったし、独歩の文学碑も見つけることはできなかったけど、、門の側に植えられた梅はきれいだったし、独歩の歩いた散歩道をお散歩できたんだから、まぁいいかな。



今回のルート




柳井の街並み~金魚ちょうちんの町~④

柳井の町 その2


しらかべ学遊館を出て、ゆっくりと町を散策してみる。

さすがに昔のメイン通りだっただけあり、通り沿いには、国森家住宅や佐川醤油店など、大きな屋敷が並んでいる。

国森家住宅
国森家住宅
国指定重要文化財 国森家住宅。油商を営んでいた豪商で、明和5年(1768年)頃に建てられたと伝えられている。
店先や窓には、土戸をはめられる仕組みが造られており、防火対策に如何に心を砕いていたかがわかる。
中を見たくて、呼び鈴を何度も鳴らしたのだが、誰も出てきてくれなかった・・・・
今度来た時は入ってみなくちゃ。

同じような土蔵造り、瓦葺の家だが、屋根の形を変えたりして、微妙に個性を主張している。
まぁ、隣とまったく同じ家だとちょっと嫌だよね・・・

佐川醤油店
佐川醤油店
国森家住宅は入母屋造りだが、こちらの屋根は切妻造り。しかも、ちょっと洋風に改築してあったりもする。白壁、瓦葺で、町としては統一された景観を保ちながらも、ひそかに個性を主張するとは、さすが、お金持ちのやることは違うね。

メイン通りから、柳井川の方に小路が何本か伸びているが、昔は、柳井川で商品を積み下ろしするために荷物を運ぶために使われていたようだ。

にぎやかなメイン通りもいいけど、個人的には、こういう静かな路地裏の方が好きかな。

掛屋小路
掛屋小路
街筋に、掛屋(かけや)という金融業を営む家があったので、掛屋小路(かけやしょうじ)と呼ばれたそうだ。
今は人の気配のない路地だけど、昔は荷物を載せた大八車とか行きかって、大賑わいだったんだろうなぁ。

掛屋小路には、古い町割りの排水溝という案内板も立てられていた。ここには昔からの石組みの排水溝が残っているそうだ。

掛屋小路 排水溝案内板
掛屋小路排水溝案内板
古市金屋地区の北側50mに「新市水路」と呼ばれる用水路が造られ、新市水路と柳井川の間にある古市、金屋地区には、33本の石積み水路が造られて、雨水を処理していたらしい。
その33本の排水溝に沿って町割りが造られたそうだ。

室町時代頃に排水溝と、それに沿った町割りがなされて、町づくりがされたらしい。

そんな昔から計画的な町づくりがされていたっていうのは、柳井が昔から重要な商業都市だったという証なのかもしれないね。

佐川醤油店 醤油蔵


柳井川と反対方向、メイン通りから少し北に上がったところに、佐川醤油店の醤油蔵がある。

柳井名物である甘露醤油を造っている醤油蔵だ。

佐川醤油店 醤油蔵
佐川醤油店 醤油蔵
現在でも、醤油製造のために使われている。ここで造られているのは、甘露醤油と呼ばれる再仕込み醤油。天明年間(1780年代)に、高田伝兵衛という醸造家が造った醤油を、殿さまに献上したところ、「甘露、甘露」(おいしい)とお褒めの言葉をいただいたころから、甘露醤油と名付けられたそうだ。
「甘露」というと、甘そうなイメージが湧くのだが、別に甘くはない。スーパーで買える「刺身醤油」とほぼ同じような感じ。まぁ、同じ再仕込み醤油なんだから当たり前だけどね。

今も現役という醤油蔵は、一般にも公開されており、中を見学することができる。

醤油蔵内部
佐川醤油店 醤油蔵内部
醤油樽は並んでいるのだが、誰もいない・・・
しかも、右手には土産物コーナーがあり、左にはひな人形の展示がある。
見た感じ観光施設にしか見えないんだけど、本当にここで造っているのかなぁ。

醤油を仕込んだ樽の前には、甘露醤油の製造工程を説明する案内板と、模型が置かれていたが、甘露醤油は、普通の醤油製造の2倍近い工程が必要で、合計で4年近い歳月をかけて造られるのだと書いてあった。

少し、お高いのはしょうがないのかな・・・

甘露醤油の仕込み工程
甘露醤油の仕込み工程
醤油は、濃口醤油、淡口(うすくち)醤油、溜まり醤油、再仕込み醤油、白醤油の5種類に分類されるのだが、柳井の甘露醤油は再仕込み醤油である。
普通の醤油は麹に塩水を混ぜ、熟成させたものを絞って生醤油(きじょうゆ)を造り、それに火を入れて醤油にするらしいのだが、甘露醤油は、塩水の代わりにいったん作った生醤油を混ぜてさらに熟成させるらしい。
普通の醤油の2倍の工程を必要とするため、仕込みは合計で4年近くの歳月を要するのだそうだ。

ちなみに、醤油づくりの模型はこんな感じ。

静まり返っている醤油蔵を見ると、こんなに大変な作業が行われている感じはしないんだけど・・・

作業場は他にあるのかな?

醤油製造工程space.jpg醤油製造工程
醤油製造工程
麦を炒ったり、炒った麦をひいたり、熟成させたもろみを絞ったり・・・と見るからに大変そうな工程。こんな作業を本当にここで行っているのかな?それとも、作業場は他にあるのか、謎なんだけど・・・


見学者用の階段を登り、ガラス越しに30石桶と呼ばれるという醤油樽を見てみた。

少しアナクロな感じはしなくもないが、明治4年から、145年も使い続けているという吉野杉の樽に、琴石山系の伏流水を使用して仕込むという醤油は確かにおいしそうだ。

醤油蔵の醤油樽
醤油樽
一升瓶で3000本入ることから30石桶と呼ばれているらしい。吉野杉の桶で熟成させる、ヴィンテージワインのような醤油。
鉄道唱歌にも、「風に糸よる柳井津の 港にひびく産物は 甘露醤油に柳井縞 からき浮世の塩の味」と歌われているそうだ。明治時代から、全国的に有名な名産品だったんだね。

醤油蔵にはお土産コーナーがあり、佐川醤油店の様々な商品が置かれていた。

甘露醤油だけでなく、ドレッシングやふりかけなども造っているようだ。

醤油蔵 お土産コーナー
醤油蔵 お土産コーナー
コラーゲンが摂れるドレッシングや、乳酸菌、体にいいという粉末納豆など、いろんな商品が並ぶ。なかなかのチャレンジ精神である。
金魚ちょうちんまで売っているところなど、なかなか商魂たくましい。
佐川醤油店のHPで、どんな商品があるかも見ることができます。

伝統にあぐらをかくのではなく、新しいものにチャレンジしていこうという姿勢は素晴らしいと思う。

甘露醤油しか買わなかった私が言うのもなんだけどね・・・





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しんどいわ太郎

Author:しんどいわ太郎
いつの間にか、1年遅れになっちゃった・・・
別のブログを立ち上げる予定ですが、ここには季節ネタをちょくちょくあげて残しておくつもりです。
新しいブログにデータを移すのはめんどくさいからね・・・

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