鞆の浦②
港湾施設は一通り見たので、しばらく町をぶらつくことにした。
鞆の浦歴史民族資料館
鞆の町の中心部に小高い山がある。
かつて、初代広島藩主 福島正則が築いた鞆城の跡だ。
左/鞆城跡への階段 結構きつい・・・中/鞆城本丸の石塁の一部 右/鞆の浦歴史民族資料館
鞆城は、もともと毛利元就の築かせた「鞆要害」を大規模な城にしたものだったが、その存在を知った徳川家康の怒りに触れて取り壊され、以後は奉行所が置かれたという。
今では鞆の浦歴史民族資料館が建っており、鞆の浦の歴史や鞆の人々の暮らしなどに関する資料が展示されている。
観光前にチェックしておくといいかも知れない。写真はNGだけどね・・・・
ささやき橋
鞆の町には沢山の寺社があるが、、鞆城跡の西側にほぼ一列に並んでいる。
初代広島藩主 福島正則が鞆城を築いたときに寺町として整備されたものらしいが、そのうちの一つ静観寺(じょうかんじ)の前に「ささやき橋」という橋がある。
1mもない橋だが、これには悲恋の伝説があるという。
ささやき橋 当時 このあたりは海で、中州をつなぐ橋があったという
応神天皇の頃(4世紀後半頃)、百済よりの使節の接待役 武内臣和多利(たけのうちのおみわたり)と官妓 江の浦(えのうら)は、役目を忘れ夜毎この橋で恋を語り合っていた。それが噂になってふたりは海に沈められ、その後、その橋を密語(ささやき)の橋と呼ぶようになったというのだ。
昔の人は恋愛をするのも命がけだったのかな?
山中 鹿介 首塚
ささやき橋のすぐ側に>山中 鹿介(やまなかしかのすけ)の首塚がある。
山中 鹿介 首塚 胴塚は、岡山県の阿井の渡にある。
山中 鹿介は、山陰地方を治めていた戦国大名 尼子(あまご)氏の家臣で、毛利氏に滅ぼされた尼子家再興のため、毛利に挑み続けた武将である。
「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈ったという逸話でよく知られている。
尼子家再興を期して織田信長の下で働き、豊臣秀吉の中国攻めの先兵として上月城を攻略した山中 鹿介だったが、毛利氏の反撃に会い、秀吉が救援部隊を撤退したことから毛利氏に降伏して捕らえられた。
山中 鹿介は、毛利輝元の下へ護送される途中、岡山県の高梁市にある阿井の渡(あいのわたし)で毛利氏に謀殺されてしまったのだが、その際に切り落とした首が首実検(首が本物かどうか確かめること)のために鞆に送られてきたというのだ。
当時、静観寺には、織田信長に京を追われて「鞆要害」に本拠を移していた室町幕府の将軍 足利義昭がいたからである。
鹿介の首塚はかなり立派なものだが、首と胴体が遠く離れた場所に葬られているというのも少し気の毒な気がする。
沼名前神社(ぬなくまじんじゃ)
沼名前神社は、地元の人からは「祇園さん」と呼ばれ、親しまれている神社。
左/沼名前神社 鳥居 形が変わっている。笠木の両端に「鳥衾(とりぶすま)」が付く肥前鳥居の特徴を持つ。 右/沼名前神社 拝殿 かなり立派な建物。
沼名前神社には、大綿津見命(おおわたつみのみこと)を祀る「渡守(わたす)神社」と、須佐之男命(すさのおのみこと)を祀る「祇園宮」が一緒にまつられている。平安時代の延喜式にも記載されている由緒正しい神社で、京都の八坂神社はこの祇園宮から移されたものだという。
ここには、重要文化財に指定された能舞台がある。
沼名前神社 能舞台 屋根はこけら葺 床下には音響を良くするために備前焼のつぼが置かれているという。
組み立て式で、戦場にも持っていけるようになっているらしい。秀吉が愛用して伏見城にあったものを、初代福山藩主 水野勝成が二代将軍 徳川秀忠より拝領したものだという。
残念ながら、雨戸(?)が立てられていて舞台は見えない・・・機会があれば一度見てみたいな。
安国寺
沼名前神社から少し北に歩くと安国寺という寺がある。
安国寺は、南北朝時代に足利尊氏、直義(ただよし)兄弟が日本各地につくらせたお寺である。といっても、ここ、備後安国寺は、鎌倉時代に作られた金宝寺というお寺を修理して「安国寺」としたものらしい。
左/安国寺山門 右/阿弥陀三尊像 鎌倉時代のもので、国の重要文化財に指定されている。胎内には、経巻、念仏記、勧進帖、願文、袈裟、横笛、短刀、漆塗箱、数珠など12件20点が入っていたそうだ。 その前にいるお坊さんの像が法燈(ほっとう)国師坐像で同じく国の重要文化財に指定されている。法燈(ほっとう)国師は、備後安国寺のもとになった金宝寺の創建者だそうだ。
もともと、室町幕府を開いた足利家と鞆の浦との縁は深い。
鎌倉幕府を倒し、建武の新政を行った後醍醐天皇と対立し、楠正成、新田義貞らの軍に敗れて九州に落ち延びた足利尊氏は、鞆の小松寺で光厳上皇の院宣を得て京に再び攻め上っていった。その後の南北朝時代には、南朝と北朝の軍が鞆の町たびたび戦をしている。
そして、室町幕府の15代将軍 足利義昭は織田信長に京を追われ、毛利氏の援助を受けて鞆城のもとになった「鞆要害」を本拠地とし、鞆幕府と呼ばれた。
「足利(室町幕府)は鞆で興り鞆で滅びた」と幕末の歴史家 頼山陽が喩えた由縁である。
左/安国寺本堂跡 右/枯山水庭園
釈迦堂の裏に枯山水の庭園があるというので行ってみた。そこには、かつての本堂の跡と庭園があった。
県の史跡の枯山水の庭園というので、白砂の敷き詰められた庭園を想像していたのだが、砂もなく、雑草が生えてかなり荒れた感じだった。
かつての賑わいを失ったこの小さな町では、文化遺産を守っていくというのもなかなか難しいものなのかもしれない。
※地図はこちら
鞆の浦歴史民族資料館
鞆の町の中心部に小高い山がある。
かつて、初代広島藩主 福島正則が築いた鞆城の跡だ。
左/鞆城跡への階段 結構きつい・・・中/鞆城本丸の石塁の一部 右/鞆の浦歴史民族資料館
鞆城は、もともと毛利元就の築かせた「鞆要害」を大規模な城にしたものだったが、その存在を知った徳川家康の怒りに触れて取り壊され、以後は奉行所が置かれたという。
今では鞆の浦歴史民族資料館が建っており、鞆の浦の歴史や鞆の人々の暮らしなどに関する資料が展示されている。
観光前にチェックしておくといいかも知れない。写真はNGだけどね・・・・
ささやき橋
鞆の町には沢山の寺社があるが、、鞆城跡の西側にほぼ一列に並んでいる。
初代広島藩主 福島正則が鞆城を築いたときに寺町として整備されたものらしいが、そのうちの一つ静観寺(じょうかんじ)の前に「ささやき橋」という橋がある。
1mもない橋だが、これには悲恋の伝説があるという。
ささやき橋 当時 このあたりは海で、中州をつなぐ橋があったという
応神天皇の頃(4世紀後半頃)、百済よりの使節の接待役 武内臣和多利(たけのうちのおみわたり)と官妓 江の浦(えのうら)は、役目を忘れ夜毎この橋で恋を語り合っていた。それが噂になってふたりは海に沈められ、その後、その橋を密語(ささやき)の橋と呼ぶようになったというのだ。
昔の人は恋愛をするのも命がけだったのかな?
山中 鹿介 首塚
ささやき橋のすぐ側に>山中 鹿介(やまなかしかのすけ)の首塚がある。
山中 鹿介 首塚 胴塚は、岡山県の阿井の渡にある。
山中 鹿介は、山陰地方を治めていた戦国大名 尼子(あまご)氏の家臣で、毛利氏に滅ぼされた尼子家再興のため、毛利に挑み続けた武将である。
「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈ったという逸話でよく知られている。
尼子家再興を期して織田信長の下で働き、豊臣秀吉の中国攻めの先兵として上月城を攻略した山中 鹿介だったが、毛利氏の反撃に会い、秀吉が救援部隊を撤退したことから毛利氏に降伏して捕らえられた。
山中 鹿介は、毛利輝元の下へ護送される途中、岡山県の高梁市にある阿井の渡(あいのわたし)で毛利氏に謀殺されてしまったのだが、その際に切り落とした首が首実検(首が本物かどうか確かめること)のために鞆に送られてきたというのだ。
当時、静観寺には、織田信長に京を追われて「鞆要害」に本拠を移していた室町幕府の将軍 足利義昭がいたからである。
鹿介の首塚はかなり立派なものだが、首と胴体が遠く離れた場所に葬られているというのも少し気の毒な気がする。
沼名前神社(ぬなくまじんじゃ)
沼名前神社は、地元の人からは「祇園さん」と呼ばれ、親しまれている神社。
左/沼名前神社 鳥居 形が変わっている。笠木の両端に「鳥衾(とりぶすま)」が付く肥前鳥居の特徴を持つ。 右/沼名前神社 拝殿 かなり立派な建物。
沼名前神社には、大綿津見命(おおわたつみのみこと)を祀る「渡守(わたす)神社」と、須佐之男命(すさのおのみこと)を祀る「祇園宮」が一緒にまつられている。平安時代の延喜式にも記載されている由緒正しい神社で、京都の八坂神社はこの祇園宮から移されたものだという。
ここには、重要文化財に指定された能舞台がある。
沼名前神社 能舞台 屋根はこけら葺 床下には音響を良くするために備前焼のつぼが置かれているという。
組み立て式で、戦場にも持っていけるようになっているらしい。秀吉が愛用して伏見城にあったものを、初代福山藩主 水野勝成が二代将軍 徳川秀忠より拝領したものだという。
残念ながら、雨戸(?)が立てられていて舞台は見えない・・・機会があれば一度見てみたいな。
安国寺
沼名前神社から少し北に歩くと安国寺という寺がある。
安国寺は、南北朝時代に足利尊氏、直義(ただよし)兄弟が日本各地につくらせたお寺である。といっても、ここ、備後安国寺は、鎌倉時代に作られた金宝寺というお寺を修理して「安国寺」としたものらしい。
左/安国寺山門 右/阿弥陀三尊像 鎌倉時代のもので、国の重要文化財に指定されている。胎内には、経巻、念仏記、勧進帖、願文、袈裟、横笛、短刀、漆塗箱、数珠など12件20点が入っていたそうだ。 その前にいるお坊さんの像が法燈(ほっとう)国師坐像で同じく国の重要文化財に指定されている。法燈(ほっとう)国師は、備後安国寺のもとになった金宝寺の創建者だそうだ。
もともと、室町幕府を開いた足利家と鞆の浦との縁は深い。
鎌倉幕府を倒し、建武の新政を行った後醍醐天皇と対立し、楠正成、新田義貞らの軍に敗れて九州に落ち延びた足利尊氏は、鞆の小松寺で光厳上皇の院宣を得て京に再び攻め上っていった。その後の南北朝時代には、南朝と北朝の軍が鞆の町たびたび戦をしている。
そして、室町幕府の15代将軍 足利義昭は織田信長に京を追われ、毛利氏の援助を受けて鞆城のもとになった「鞆要害」を本拠地とし、鞆幕府と呼ばれた。
「足利(室町幕府)は鞆で興り鞆で滅びた」と幕末の歴史家 頼山陽が喩えた由縁である。
左/安国寺本堂跡 右/枯山水庭園
釈迦堂の裏に枯山水の庭園があるというので行ってみた。そこには、かつての本堂の跡と庭園があった。
県の史跡の枯山水の庭園というので、白砂の敷き詰められた庭園を想像していたのだが、砂もなく、雑草が生えてかなり荒れた感じだった。
かつての賑わいを失ったこの小さな町では、文化遺産を守っていくというのもなかなか難しいものなのかもしれない。
※地図はこちら
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