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鞆の浦②

港湾施設は一通り見たので、しばらく町をぶらつくことにした。

鞆の浦歴史民族資料館

鞆の町の中心部に小高い山がある。
かつて、初代広島藩主 福島正則が築いた鞆城の跡だ。

鞆城跡への階段space.jpg鞆城本丸の石塁space.jpg鞆の浦歴史民族資料館
左/鞆城跡への階段 結構きつい・・・中/鞆城本丸の石塁の一部 右/鞆の浦歴史民族資料館

鞆城は、もともと毛利元就の築かせた「鞆要害」を大規模な城にしたものだったが、その存在を知った徳川家康の怒りに触れて取り壊され、以後は奉行所が置かれたという。

今では鞆の浦歴史民族資料館が建っており、鞆の浦の歴史や鞆の人々の暮らしなどに関する資料が展示されている。

観光前にチェックしておくといいかも知れない。写真はNGだけどね・・・・

ささやき橋

鞆の町には沢山の寺社があるが、、鞆城跡の西側にほぼ一列に並んでいる。

初代広島藩主 福島正則が鞆城を築いたときに寺町として整備されたものらしいが、そのうちの一つ静観寺(じょうかんじ)の前に「ささやき橋」という橋がある。

1mもない橋だが、これには悲恋の伝説があるという。

ささやき橋space.jpgささやき橋
ささやき橋 当時 このあたりは海で、中州をつなぐ橋があったという

応神天皇の頃(4世紀後半頃)、百済よりの使節の接待役 武内臣和多利(たけのうちのおみわたり)と官妓 江の浦(えのうら)は、役目を忘れ夜毎この橋で恋を語り合っていた。それが噂になってふたりは海に沈められ、その後、その橋を密語(ささやき)の橋と呼ぶようになったというのだ。

昔の人は恋愛をするのも命がけだったのかな?

山中 鹿介 首塚

ささやき橋のすぐ側に>山中 鹿介(やまなかしかのすけ)の首塚がある。

山中 鹿介首塚
山中 鹿介 首塚 胴塚は、岡山県の阿井の渡にある。

山中 鹿介は、山陰地方を治めていた戦国大名 尼子(あまご)氏の家臣で、毛利氏に滅ぼされた尼子家再興のため、毛利に挑み続けた武将である。

「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈ったという逸話でよく知られている。

尼子家再興を期して織田信長の下で働き、豊臣秀吉の中国攻めの先兵として上月城を攻略した山中 鹿介だったが、毛利氏の反撃に会い、秀吉が救援部隊を撤退したことから毛利氏に降伏して捕らえられた。

山中 鹿介は、毛利輝元の下へ護送される途中、岡山県の高梁市にある阿井の渡(あいのわたし)で毛利氏に謀殺されてしまったのだが、その際に切り落とした首が首実検(首が本物かどうか確かめること)のために鞆に送られてきたというのだ。

当時、静観寺には、織田信長に京を追われて「鞆要害」に本拠を移していた室町幕府の将軍 足利義昭がいたからである。

鹿介の首塚はかなり立派なものだが、首と胴体が遠く離れた場所に葬られているというのも少し気の毒な気がする。

沼名前神社(ぬなくまじんじゃ)

沼名前神社は、地元の人からは「祇園さん」と呼ばれ、親しまれている神社。

沼名前神社space.jpg沼名前神社 拝殿
左/沼名前神社 鳥居 形が変わっている。笠木の両端に「鳥衾(とりぶすま)」が付く肥前鳥居の特徴を持つ。  右/沼名前神社 拝殿 かなり立派な建物。

沼名前神社には、大綿津見命(おおわたつみのみこと)を祀る「渡守(わたす)神社」と、須佐之男命(すさのおのみこと)を祀る「祇園宮」が一緒にまつられている。平安時代の延喜式にも記載されている由緒正しい神社で、京都の八坂神社はこの祇園宮から移されたものだという。

ここには、重要文化財に指定された能舞台がある。

沼名前神社 能舞台
沼名前神社 能舞台 屋根はこけら葺 床下には音響を良くするために備前焼のつぼが置かれているという。

組み立て式で、戦場にも持っていけるようになっているらしい。秀吉が愛用して伏見城にあったものを、初代福山藩主 水野勝成が二代将軍 徳川秀忠より拝領したものだという。

残念ながら、雨戸(?)が立てられていて舞台は見えない・・・機会があれば一度見てみたいな。


安国寺

沼名前神社から少し北に歩くと安国寺という寺がある。

安国寺は、南北朝時代に足利尊氏、直義(ただよし)兄弟が日本各地につくらせたお寺である。といっても、ここ、備後安国寺は、鎌倉時代に作られた金宝寺というお寺を修理して「安国寺」としたものらしい。

安国寺 山門space.jpg阿弥陀三尊像
左/安国寺山門  右/阿弥陀三尊像 鎌倉時代のもので、国の重要文化財に指定されている。胎内には、経巻、念仏記、勧進帖、願文、袈裟、横笛、短刀、漆塗箱、数珠など12件20点が入っていたそうだ。 その前にいるお坊さんの像が法燈(ほっとう)国師坐像で同じく国の重要文化財に指定されている。法燈(ほっとう)国師は、備後安国寺のもとになった金宝寺の創建者だそうだ。

もともと、室町幕府を開いた足利家と鞆の浦との縁は深い。

鎌倉幕府を倒し、建武の新政を行った後醍醐天皇と対立し、楠正成、新田義貞らの軍に敗れて九州に落ち延びた足利尊氏は、鞆の小松寺で光厳上皇の院宣を得て京に再び攻め上っていった。その後の南北朝時代には、南朝と北朝の軍が鞆の町たびたび戦をしている。

そして、室町幕府の15代将軍 足利義昭は織田信長に京を追われ、毛利氏の援助を受けて鞆城のもとになった「鞆要害」を本拠地とし、鞆幕府と呼ばれた。

「足利(室町幕府)は鞆で興り鞆で滅びた」と幕末の歴史家 頼山陽が喩えた由縁である。

安国寺本堂跡space.jpg枯山水庭園
左/安国寺本堂跡  右/枯山水庭園

釈迦堂の裏に枯山水の庭園があるというので行ってみた。そこには、かつての本堂の跡と庭園があった。

県の史跡の枯山水の庭園というので、白砂の敷き詰められた庭園を想像していたのだが、砂もなく、雑草が生えてかなり荒れた感じだった。

かつての賑わいを失ったこの小さな町では、文化遺産を守っていくというのもなかなか難しいものなのかもしれない。



※地図はこちら
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鞆の浦①

鞆の浦

前の日から晴れたので鞆の浦に行くことにした。

御手洗に行ったときから、同じ潮待ちの港である鞆の浦に来てみたかったのだが、ようやく訪れる機会が得られた。

鞆の浦のシンボル常夜燈と雁木
鞆の浦のシンボル 常夜燈と雁木

御手洗は航海技術が進んで「沖乗り」と呼ばれる航路が取られるようになる江戸時代中頃から発展した港町であるのに対し、鞆の港は「地乗り」と呼ばれる沿岸航路をとっていた時代から港として栄えた町である。

瀬戸内海では満潮時に豊後水道や紀伊水道から潮が流れ込んで鞆の浦沖でぶつかり、逆に干潮時には鞆の浦沖を境にして東西に分かれて潮が流れ出していく。

今の船のように動力を持たない昔の船は、鞆の港で潮の流れが変わるのを待ち、潮の流れを利用して航行する必要があったため、鞆は古代から港として栄えたのである。

そのため、町には古くからの言い伝えや歴史的建造物が多数残っている。

駐車場の近くに万葉集の歌碑があった。奈良時代にはすでに港があったのだろう。

むろの木の歌碑
730年、大伴旅人(おおとものたびと)が亡き妻を想い歌った歌。万葉の時代から港として利用されていたことが分かる。 「吾妹子之 見師鞆浦之 天木香樹者 常世有跡 見之人曽奈吉(吾妹子(わぎもこ)が見し鞆の浦のむろの木は常世(とこよ)にあれど見し人ぞなき)」と書いてある。「大宰府に行くときに私の妻が目にした鞆の浦のむろの木は今も変わらずにあるが、それを見た妻はもう亡くなって今はいなくなってしまった。」という、妻を失った悲しみを込めて歌った歌である

早速、海岸沿いを歩いてみた。

海岸沿いには大規模な雁木とその向こうに常夜燈が見られた。「浜の大雁木」というらしい。

浜の大雁木space.jpg雁木と常夜燈
浜の大雁木((雁木とは、潮の満ち引きに関係なく荷卸し等ができるように作られた階段状の構造物である) 1811(文化8)年に涌出岨(わくでそ)を埋め立てた際に造られたものだという。これだけ大規模な雁木が見られるのは鞆の浦だけになったそうだ。

雁木の側に小さな社があり、そこに力石というのがあった。

雁木の側の小さな社space.jpg鞆の津の力石
小さな社とそこにあった力石(重さ140~200kg)  私の力では動きそうにない・・・

江戸時代、船の荷揚げに従事していた仲仕(なかし)たちが、祭礼の場などでこの力石を持ち上げ、力と技を競ったものだという。港町の活気が伝わってくるようだ・・・

少し歩くと常夜燈にたどり着く。この常夜燈は、1859(安政6)年に西町の人々によって寄進されたものだという。

常夜燈space.jpg常夜燈
常夜燈 高さ5m以上ある。南面に「金毘羅大権現」、北面に「当所祇園宮」の石額が掲げられている。どちらも海上安全の神様

常夜燈は、町から離れた波止の突端にあるものと勝手に想像していたのだが、町からすぐのところというか、ほとんど町中に建てられていたのが意外だった・・

町をぶらつきながら、大可島(たいがじま)の下にある大波止へ向かった。

鞆の町並み
鞆の町並み 港の中心地 西町の町並み 道は狭いが、貴重な町屋が残る。

大波止は台風などの強風による大波から船を守るため、1791(寛政3)年に大可島下から50間(約90m)、淀媛神社下から20間(約36m)の波止が作られ、1811(文化8)年に播州高砂の工楽松右衛門により大規模修理と延長が行われて今の80間(約144m)になったらしい。

大波止space.jpg船番所跡
左/大波止 かつてはここの先端にも常夜燈があったという。  右/船番所跡 ここから港に出入りする船を見張っていたのだろう。

大波止の根元部分、大可島の崖に船番所の跡が残っている。船番所は港を出入りする船の出入りや安全を管理するために江戸時代の初めに、最初の鞆奉行・萩野新右衛門重富によって造られたものだという。

建物は大正時代に立て替えられたという個人所有の民家だが、立派な石垣に当時の面影を見ることができる。

鞆の浦には他にも「焚場(たでば)」というものが残されている。

木造船の船底に付着したフジツボやフナ虫などを焼き払い、乾燥させて船命を長らえさせるもので、船体の修理も行われた、今でいうドックのようなものらしい。

鞆の浦は、江戸時代の「常夜燈」、「雁木」、「波止場」、「焚場」、「船番所」の全てが全国で唯一残っている場所だという。

鞆城跡から見た鞆の港
鞆城跡から見た鞆の港  波止により、2重3重に守られているのが分かる

1000年以上にわたり、港湾都市としての繁栄を誇った鞆の町だが、技術の進歩により潮待ちの港が必要なくなってきたこと、交通の中心が汽車や自動車に移り、それらと接続容易な尾道などに物流の拠点としての地位を奪われていったことにより、近代化の波から取り残されてしまう。

しかし、そのお陰で貴重な文化遺産といえる町並みが残ったのだと思うと、ちょっと複雑な気分である。



地図はこちら


井仁の棚田・吉水園④

木炭自動車とレトロ車の館

吉水園の入り口近くに木炭自動車とレトロ車の館というのがあったので寄ってみた。

木炭自動車とレトロ車の館
木炭自動車とレトロ車の館 : かつての保育所を利用しているらしい。

中には木炭車やオート三輪など、懐かしい車が展示してあった。

マツダT2000space.jpgダイハツミゼット
左/マツダT2000    右/ダイハツミゼット

トヨタ クラウン MS50スーパーデラックスspace.jpg三菱JEEP HJ58
左/トヨタ クラウン MS50スーパーデラックス  右/三菱 JEEPの運転席  かっこいい・・・一度動かしてみたい・・

他にも、加計の町で使われていた懐かしい品々や、加計の町や加計の付近は廃線になった可部線等を写した写真展まで開かれていた。

かつて使われていた道具類space.jpgかつて使われていた道具類
かつて町の人たちが使っていた道具類。蓄音機や昔の扇風機、農業機械などさまざまなものが展示されている。

しかも、無料というのがとても嬉しい。車好きな人なら一度入ってみるといいかも・・・


加計の町とたたら製鉄

せっかくなので、加計の町を少し歩いてみた。

かえるのマンホールspace.jpgかえるのステンドグラスとおしゃれな街灯
左/カエルのマンホール 右/街灯  町にはステンドグラスのついたお洒落な街灯がついている。

加計の町は吉水園を作った鉄山師 佐々木氏(屋号 隅屋)の経営した「たたら製鉄」(日本古来の製鉄法)によって栄えた町だ。

良質の砂鉄が沢山取れる中国地方は、かつてたたら製鉄の中心地であった。加計周辺の町で作られた鉄は加計の町に集められ、太田川を利用して輸送された。

鍛冶屋館space.jpg太田川(太田川かけはし交流館前)
左/伝統の技術を今に伝える鍛冶屋館 加計の街道沿いにある 右/太田川 今はダムができて水量が少ないが、かつては豊かな水量を利用した水運が行われていた。

鉄の供給を独占した広島藩は大いに潤ったが、たたら製鉄による環境破壊が一因という太田川の氾濫により、広島の町はたびたび水害に苦しめられた。

すなわち、たたら製鉄では、大量の木炭をつくるために木を伐採し、山を切り崩して砂鉄を採取し、鉄穴(かんな)流し法(川に砂鉄を含んだ土砂を流して、水の流れで砂鉄をよりわける方法)により、大量の土砂を川に流し込んだために、上流部に堆積した土砂が下流の広島の町に流れ込み、水害をひきおこしたというのである。

技術や産業を発展させながら、自然環境を守るというのはなかなか難しいものなのかもしれない・・・

たたら製鉄は、映画「もののけ姫」にもテーマとして取り上げられているので興味があったら見てください。

道の駅 豊平どんぐり村と鉄のふるさと公園

お昼ごはんを食べるために道の駅「豊平どんぐり村」に行くことにした。

国道433号線を通っていったが、途中の山道は離合が困難なほど狭い・・・  多少遠回りになるが、南側を回っていくほうがいいと思う。

国道433号線
山道の入り口付近。国道とは名ばかりの細い道。ここからガードレールもない細い道が4~5キロ続く。途中、対向車のおばちゃんに道を譲ってもらえず、細い道を200mくらいバックする羽目に・・・泣きそうになっちゃったよ・・・

道の駅「豊平どんぐり村」は安芸太田町の隣、北広島町にある道の駅。トレーニングジムやテニスコート、温泉、野球のスタジアムまである大きな道の駅だ。

豊平どんぐり村space.jpg豊平どんぐり村
広島では有名な「むすびのむさし」という店もある。スポーツ好きならここで一日楽しめるだろう。

ゆっくりお昼を食べてお土産を買った後、近くにある鉄のふるさと公園に行ってみた。

鉄のふるさと公園space.jpg坤束製鉄遺跡
左/鉄のふるさと公園 昔のたたら製鉄の遺跡が展示されている。 右/坤束製鉄遺跡 草がぼうぼうと茂っている

ここには坤束(こんそく)製鉄遺跡というたたら製鉄の遺跡が展示されている。側にある説明書きによると14~15世紀ごろの遺跡らしい。

たたら遺跡space.jpgたたら遺跡
左/中世のたたらの炉 山の斜面を利用して作られている。  右/真ん中が製鉄炉 その両側が鞴(ふいご)

たたら製鉄では真ん中の製鉄炉に砂鉄と木炭を入れ、両側の鞴(ふいご)で空気を送ることにより炉の温度を高温に保つことで鉄を作り出す。

これによって作り出されるのがケラ(素鋼塊)とズク(銑鉄)で、ケラの中の良質の部分が玉鋼といわれ、日本刀などの材料になった。

たたら製鉄遺跡
製鉄炉の脇には炭焼き釜が作られている。非常に効率的。

たたら製鉄は、溶鉱炉で効率よく鉄を作り出す西洋の製鉄技術に押されて大正14年に消滅したが、西洋の製鉄法では日本刀の原料となる鋼(はがね)が作れないことから島根県の奥出雲に「日刀保(にっとうほう)たたら」が作られ、昭和52年から年に数回たたら操業が行われている。

機会があったら見に行きたい・・・が、姪っ子を連れて行っても喜ばないだろうなぁ・・・・・






★★★★★Data★★★★★★★★★★

1.お出かけした日: 2014年6月8日(日)
2.しんどいわポイント(しんどさを表わします):★★★☆☆
3.目的地(井仁の棚田)までの所要時間:100分
4.走行距離:139Km +13423歩( 徒歩9.7Km)
5.消費エネルギー:ガソリン6.95ℓ+ 374.8Kcal (ガソリンはリッター20Kmで計算)
6.地図はこちら





井仁の棚田・吉水園③

吉水園(よしみずえん)②

延命の小ぶくろといわれるモリアオガエルの卵塊だが、この袋のようなもの自体は卵ではない。

モリアオガエルは普段は森の中で生活し、繁殖期のみ水辺に集まって卵を産むのだが、卵を粘液で作った泡の中に産みつけるという習性をもっている。

つまり、袋のようなのはカエルの出した粘液であり、卵はこの中に約300~800個あるのだという。

モリアオガエルの卵塊space.jpgモリアオガエルの卵塊
モリアオガエルの卵塊 直径10~15cmくらいと聞いていたが、大きいものは20~30cmくらいある。右の写真の卵塊は産んでから時間が経っているのか、黄色くなって卵が露出している。

他の多くのカエルは水の中に卵を産むのに、モリアオガエルはなぜか水辺にせり出した木の上に産卵をするという習性を持っている。

しかも、その繁殖行為が変わっていて、体の大きなメスの背中に体の小さな複数のオスがしがみついて卵を産み、分泌した粘液をオスとメスが足でかき回して卵塊をつくるのだそうだ。

かなり園内を歩き回ったが、産卵シーンは見られなかった。

モリアオガエルspace.jpgモリアオガエル
やっと見つけたモリアオガエル 思っていたよりかなり大きい

それどころか、なかなかカエルを見つけることもできなかった・・・

モリアオガエルspace.jpgモリアオガエル
メスを待っているのか?なかなかの忍耐力。

やっと見つけたモリアオガエルのオスたちはじっとメスガエルを待っていた。しかも、これからメスガエルにしがみついていくのだから・・・

とぼけた顔をしている割にかなりのやり手である。男として見習わなければいけない・・・・

池の中を見ると、イモリが沢山泳いでいた。泡の中で孵化して落ちてきたオタマジャクシをイモリはぱくぱくと食べてしまい、無事成長できるカエルは少ないのだという。残酷なようだが、これも自然界の摂理なのだろう。

池の中のイモリspace.jpgオタマジャクシ
左/下で待ち構えるイモリたち。右/オタマジャクシ モリアオガエルの子供?

結局、産卵シーンは見られなかったが、小さな命の重みと自然界の厳しさを改めて教えてもらった貴重な一日だった。

でも、やっぱり産卵シーンは見たかったな・・・



井仁の棚田・吉水園②

吉水園(よしみずえん)①

井仁の棚田を出て、一般公開されている吉水園(よしみずえん)に行くため、加計の町に向かった。

吉水園は回遊式の庭園(散策して景色を楽しむ庭園)で、県の名勝に指定されている。

一般公開は、春と秋の2週間ずつ(土日のみ)、つまり年間 計8日間のみである。

吉水園(外観)space.jpg山口誓子の句碑
左/吉水園(外観) 広島藩主や山口誓子、湯川秀樹、岸信介等も訪れたという。  右/山口誓子の句碑 「藻の疊もりあをがへる落ちてよし」と書いてある。

吉水園は江戸時代半ばの天明元年(1781年)から、この地で製鉄業により富を築いた加計隅屋(隅屋は屋号)16代当主の佐々木八右衛門正任が山荘として建設をはじめたもので、広島の縮景園も手がけた京都の庭師 清水七郎右衛門の手により3度に渡って改造修理が行われたという。

吉水亭(きっすいてい)space.jpg玉壷池
左/吉水亭  右/玉壷池(たまつぼいけ)山口誓子の句碑にあった「藻の畳」とはこのことかな?

門を入ると池(玉壷池)があり、30mもいかないうちにメインの建物の吉水亭(よしみずてい)にたどり着く。大金持ちの別邸なのでもっと大きいのかと思っていたが、案外とこじんまりしている。

吉水亭の中に入ると、製鉄で栄えた家らしく神社に奉納したズク(銑鉄)や鉄瓶などが飾られ、その先に景色を眺めるための高間(中二階)がある。

絵馬として神社に奉納されたズク(銑鉄)space.jpg高間
左/絵馬として神社に奉納されたズク(銑鉄) 日本古来のたたら製法では、ケラ(素鋼塊)とズク(銑鉄)ができる。ズクは包丁鉄などに加工される 右/写真右側の階段を登ったところが高間


遠くの太田川と山並みを借景として、この高間から見る庭園の眺めがこの吉水園の最高の鑑賞ポイントだそうだ。

吉水亭からの眺め
吉水亭からの眺め  紅葉が紅葉するとさぞかしきれいだろう。

吉水亭の裏にまわるときれいな湧き水が出ていた。そして、そこから建物を見ると雨戸の上の欄間に見事な透かし彫りが彫られていた。菊水・水車・水仙が彫られているらしい。

こういう細かいところへのこだわりはさすがだと思う。

吉水井space.jpg欄間の透かし彫り
左/吉水井 きれいな湧き水  右/吉水井の前 欄間に透かし彫りがある。

せっかくなので園内を散策してみる。なんたって、回遊式の庭園だから・・・

吉水亭を出てすぐのところに鳥居があり、その側にはご神木と思しき大きな杉の木が生えていた。そして、階段を登ったところに社があった。

園内の鳥居space.jpg金屋子社
園内の神社 金屋子社(かなやごしゃ) たたらの神様。人々に鉄作りの技術を教えたという。

鉄山経営で栄えた家らしく、出雲の国比田から勧請したというたたらの神様 金屋子社(かなやごしゃ)とその隣には琴平社と稲荷社が一つの社の中に祀られていた。

そこから少し歩いて薬師堂を見た後、再び吉水亭の前の池に戻ってみる。なぜかというと、モリアオガエルの産卵を見たかったからである。

実は、ここ吉水園はモリアオガエルの繁殖地として知られ、「吉水園のモリアオガエル」として県の天然記念物に指定されているのだ。

松林庵 薬師堂space.jpgモリアオガエルの卵space.jpgモリアオガエルの卵
左/松林庵 薬師堂 中・右/モリアオガエルの卵


モリアオガエルの卵塊は「延命の小ぶくろ」といわれ、見た人は寿命が延びるといわれるほど珍しいものらしいが、池の周りの木を見ると、ありがたみがなくなるほど沢山の卵塊があった。

これで私の寿命も百年くらいは延びた・・・よね?



井仁の棚田・吉水園①

井仁(いに)の棚田

いつも通り朝4時頃目を覚ましたが、昨晩からの雨は上がっていたものの、外は曇り空。

晴れていたら鞆の浦に行きたかったのだが・・・・

気を取り直して前から行ってみたかった井仁(いに)の棚田に行くことにした。

井仁の棚田(展望台より)
井仁の棚田 雨はやんだが、曇り空に濃霧・・・

井仁の棚田は広島県の北部、山県郡安芸太田町の井仁地区にある。

井仁地区へは戸河内インターで降りて県道303号を通ればすぐなのだが、お金がないので国道191号線から県道303号線を目指す。

太田川上流
途中の太田川(吉ヶ瀬発電所)。川はきれい。ほんとは高速道路に乗りたかった・・・でも景色をみながらゆっくり走るのもいいのかな?

県道への分かれ道が分かるか心配だったが、井仁の棚田という案内板が出ていたので迷わなかった。県道303号も入り口こそ狭かったものの、少し入ると道幅が広くなりそんなに苦労もしないで井仁地区に到着。

戸河内インターの側から来ると井仁トンネルを通ってくることになる。車1台しか通れない狭くて暗いトンネルを抜けると棚田の広がる静かな集落が現れる。

秘境気分を味わいたいなら戸河内インター側から入ったほうがいいかも・・

井仁トンネル
井仁トンネル。車1台しか通れない。

井仁の棚田は広島県で唯一日本棚田百選に選ばれたところ。看板によると、農地面積は水田 7.9ha、畑 4.8ha、棚田枚数は324枚(平成11年7月26日)だそうだ。

広さは東京ドーム2.7個分くらい。平野部が少なく、数多くの棚田がある広島県にで唯一選ばれたのだから、もっと沢山の棚田があるものと思っていたのだが、思っていたよりはこじんまりとした感じだ。

井仁の棚田space.jpg井仁の棚田
棚田 自然の谷の一体感がすばらしい。

しかし、複雑な形の田が組み合わされ、自然の谷と一体となって見事な調和を作り出している。棚田は美しいだけではなく、洪水や土砂の侵食防止などの環境保全の役割も果たしているという。

棚田の石垣space.jpg棚田の石垣
棚田の石垣

石垣の手入れなど、手間のかかる棚田の維持は高齢化の進んだ集落には大変なことだと思うが、いつまでも残してもらいたい風景だと思う。

棚田のカエルspace.jpg棚田の水
左/棚田にいた蛙  右/棚田に流れ込む水 とてもきれい。おいしいお米がとれそう・・・

井仁では、棚田塾の受講生を募ったりして都市との交流をすすめているようだ。もうちょっと社交的な性格だったら参加してみるんだけどな・・・

せめて秋になったらお米を買いに来たいなぁ。今回見られなかった水車小屋も見たいしね。





プロフィール

しんどいわ太郎

Author:しんどいわ太郎
いつの間にか、1年遅れになっちゃった・・・
別のブログを立ち上げる予定ですが、ここには季節ネタをちょくちょくあげて残しておくつもりです。
新しいブログにデータを移すのはめんどくさいからね・・・

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