鞆の浦③
福禅寺 対潮楼
福禅寺は、平安時代 天暦年間(950年ごろ)空也上人の創建と伝えられる真言宗のお寺(創建時は天台宗)。

崖下の県道から見た福禅寺 昭和30年代に埋め立てられる前は海だった。
本堂に隣接する対潮楼は、江戸時代の元禄年間(1690年ごろ)に創建された客殿で朝鮮通信史(朝鮮からの使節団)3役の迎賓館としても使われている。
対潮楼からの景観はすばらしく、1711(正徳元)年、従事官 李邦彦(イ パンオン)は、そこからの眺望を「日東第一形勝」(朝鮮より東で一番美しい景勝地)と賞賛し、書を残している。

日東第一形勝の書と対潮楼からの眺め
今は対潮楼の下には県道22号が通って、そこに建てられた建物が見えるが、江戸時代は海に突き出した建物だったので、波の打ち寄せる景観を楽しめたに違いない。

対潮楼から見た弁天島と平成のいろは丸
対仙酔楼
対潮楼のすぐそばに、かつての豪商大阪屋の建てた「対仙酔楼」という建物がある。

対仙酔楼
江戸時代後期の儒学者で歴史家でもあった頼山陽が「対仙酔楼」と名づけ、書を残しているという。
頼山陽は、ここから見える景色を「山紫水明処」と描写し、熟語の語源となったとされている。
今は中は非公開だけど、機会があれば見てみたいな。
淀媛神社
眺めが良いと噂の医王寺へ行きたかったのだが、医王寺への登り道が分かりにくくて通り過ぎてしまったので、そのまま淀媛神社まで歩いた。
淀媛神社は、三韓征伐を行った神功(じんぐう)皇后の妹君である淀姫(虚空津姫命(こくつひめのみこと))を奉った神社である。



左/淀媛神社 淀姫は、三韓征伐より凱旋のとき、渡守神社(現 沼名前神社)の祭主となったのだという 拝殿 右/淀媛神社 鳥居前の百度石 なぜか狛犬がじゃれついている・・・
鞆の港を守る淀媛神社の本殿前からは、港が良く見える。



左/鞆港(大可島付近) 右/淀媛神社鳥居前の恋みくじ 隕石が落ちたらしい。
淀媛神社付近には隕石が落ちたらしく、「星の浦」という地名も残っているらしい。そこにはなぜか恋みくじというのがあった。
隕石のようにがつーんと出会いがあるということなのか?
ちなみに私は中吉でした。
医王寺
少し戻って医王寺へと向かう。医王寺は焚場(たでば)跡付近にある狭い路地を山に向かって登っていったところだ。
入り口はとても分かりにくい・・・
途中には平賀源内の生祠(せいし)があった。



左/医王寺への登り道 右/平賀源内 生祠 生祠とは生きているうちに神として祀ること。長崎の帰りに鞆の浦の溝川家に立ち寄り、陶土を見つけて源内焼きの製法を伝えた平賀源内を溝川家が祀ったものである。
坂を登っていったところにはわらじの吊り下げてある仁王門があり、その先に医王寺があった。



医王寺 仁王門 なぜかわらじが吊り下がっている
本堂の裏に太子殿(たいしでん)への登り口があったので、早速登ってみた。



左/医王寺 本堂と鳥居 右/太子殿への登り口
太子殿への道は予想以上に厳しかった・・・
山の中の階段を登ること10分。ようやく開けた場所に出たと思ったら、ただの休憩所だった・・・



太子殿への階段と途中での風景。休憩所といってもベンチがあるだけ。自販機もありません。
そこから山を登ることさらに10分。ようやく太子殿に到着・・・・ 階段は500段もあった・・・・・

医王寺 太子殿
景色はきれいだったけど、帰りも同じ道を歩くのかと思うとちょっと憂鬱・・・



医王寺 太子殿からの眺望
ダイエットにはいいかも・・・・
※ 地図はこちら
福禅寺は、平安時代 天暦年間(950年ごろ)空也上人の創建と伝えられる真言宗のお寺(創建時は天台宗)。

崖下の県道から見た福禅寺 昭和30年代に埋め立てられる前は海だった。
本堂に隣接する対潮楼は、江戸時代の元禄年間(1690年ごろ)に創建された客殿で朝鮮通信史(朝鮮からの使節団)3役の迎賓館としても使われている。
対潮楼からの景観はすばらしく、1711(正徳元)年、従事官 李邦彦(イ パンオン)は、そこからの眺望を「日東第一形勝」(朝鮮より東で一番美しい景勝地)と賞賛し、書を残している。

日東第一形勝の書と対潮楼からの眺め
今は対潮楼の下には県道22号が通って、そこに建てられた建物が見えるが、江戸時代は海に突き出した建物だったので、波の打ち寄せる景観を楽しめたに違いない。

対潮楼から見た弁天島と平成のいろは丸
対仙酔楼
対潮楼のすぐそばに、かつての豪商大阪屋の建てた「対仙酔楼」という建物がある。

対仙酔楼
江戸時代後期の儒学者で歴史家でもあった頼山陽が「対仙酔楼」と名づけ、書を残しているという。
頼山陽は、ここから見える景色を「山紫水明処」と描写し、熟語の語源となったとされている。
今は中は非公開だけど、機会があれば見てみたいな。
淀媛神社
眺めが良いと噂の医王寺へ行きたかったのだが、医王寺への登り道が分かりにくくて通り過ぎてしまったので、そのまま淀媛神社まで歩いた。
淀媛神社は、三韓征伐を行った神功(じんぐう)皇后の妹君である淀姫(虚空津姫命(こくつひめのみこと))を奉った神社である。



左/淀媛神社 淀姫は、三韓征伐より凱旋のとき、渡守神社(現 沼名前神社)の祭主となったのだという 拝殿 右/淀媛神社 鳥居前の百度石 なぜか狛犬がじゃれついている・・・
鞆の港を守る淀媛神社の本殿前からは、港が良く見える。



左/鞆港(大可島付近) 右/淀媛神社鳥居前の恋みくじ 隕石が落ちたらしい。
淀媛神社付近には隕石が落ちたらしく、「星の浦」という地名も残っているらしい。そこにはなぜか恋みくじというのがあった。
隕石のようにがつーんと出会いがあるということなのか?
ちなみに私は中吉でした。
医王寺
少し戻って医王寺へと向かう。医王寺は焚場(たでば)跡付近にある狭い路地を山に向かって登っていったところだ。
入り口はとても分かりにくい・・・
途中には平賀源内の生祠(せいし)があった。



左/医王寺への登り道 右/平賀源内 生祠 生祠とは生きているうちに神として祀ること。長崎の帰りに鞆の浦の溝川家に立ち寄り、陶土を見つけて源内焼きの製法を伝えた平賀源内を溝川家が祀ったものである。
坂を登っていったところにはわらじの吊り下げてある仁王門があり、その先に医王寺があった。



医王寺 仁王門 なぜかわらじが吊り下がっている
本堂の裏に太子殿(たいしでん)への登り口があったので、早速登ってみた。



左/医王寺 本堂と鳥居 右/太子殿への登り口
太子殿への道は予想以上に厳しかった・・・
山の中の階段を登ること10分。ようやく開けた場所に出たと思ったら、ただの休憩所だった・・・



太子殿への階段と途中での風景。休憩所といってもベンチがあるだけ。自販機もありません。
そこから山を登ることさらに10分。ようやく太子殿に到着・・・・ 階段は500段もあった・・・・・

医王寺 太子殿
景色はきれいだったけど、帰りも同じ道を歩くのかと思うとちょっと憂鬱・・・



医王寺 太子殿からの眺望
ダイエットにはいいかも・・・・
※ 地図はこちら
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