FC2ブログ

備中松山城と高梁市⑤

高梁市の町並み その1

お城でビデオを見たり、パネルを読んだりしてゆっくり過ごしていたら、お城を降りるころにはもうお昼近く。

松山城から見た高梁市の町
城から出るとき、山の下を見るとようやく霧が晴れてきて、町が見えるようになっていた。時刻は11時15分。

山を下りて車を高梁市観光駐車場に停め、町の中を歩いてみた。

高梁市 下町の民家space.jpg紺屋川筋美観地区
左/観光駐車場のそばの大きな商家。高梁は水運で栄えた商人の町なのだ。  右/紺屋川(伊賀谷川)

駐車場から北側に50mほど歩くと紺屋川(こうやがわ)(伊賀谷川)という小さな川に出る。ここはかつて備中松山城の外堀としての役割を果たしていたそうだ。

川には何故か小さな橋がたくさんかかっていて、そのうちの2本には小さな社が乗っかっている。高梁川の物流の拠点として栄えた商人の町らしく恵比寿様を祀ったもので、高梁にある7つの恵比寿社のうちの2つらしい。

七恵比寿社宮space.jpg七恵比寿社宮
七恵比寿社宮 小さな橋の上にのっている。高梁の町には7つの恵比寿社があり、「七恵比寿」と呼ばれているそうだ。

紺屋川(伊賀谷川)の川沿いには桜の木が沢山植えられており、春になると川沿いを美しく彩るそうだ。ここには高梁キリスト教会や藩校 有終館跡などもあり、情緒ある町並みは日本の道百選にも選ばれている。

紺屋川の川沿いの道space.jpg紺屋川のもみじ
左/紺屋川川沿いの道 今は桜は葉っぱも生えてない。春にまた来てみたいなぁ。 右/紺屋川のもみじ 桜は見られなかったが、もみじはきれいだった。

高梁キリスト教会堂space.jpg高梁キリスト教会堂 説明
高梁キリスト教会堂 岡山県最古の教会。明治12年に始まった高梁でのキリスト教布教活動は、翌13年に新島襄(にいじまじょう)が訪れたことで急速に発展して明治15年4月に高梁基督教会が創立され、明治22年(1889年)に信者の寄付によって教会堂が建てられたそうだ。


頼久寺(らいきゅうじ)

高梁キリスト教会堂から東の山の方に向かって歩いて行くと、大きな石垣のあるお寺がたくさん並んで寺町を形成していた。

高梁の寺町
高梁市の寺町 手前が龍徳院、奥の大きな石垣の寺が巨福寺

他の城下町と同じく、城の防衛ラインとして一か所に集めて築かれたものなのだろうが、その北側に頼久寺という一際立派なお寺がある。

頼久寺space.jpg頼久寺説明
頼久寺 臨済宗永源寺派のお寺。石垣と土塀はまるでお城のようだ。

室町時代に足利尊氏が再興して備中の安国寺としたものらしいのだが、関ヶ原の合戦後、毛利氏がこの地を去り、代官として小堀正次・政一(遠州)がこの地を治める際にはここを仮の館としたという。備中松山城が備中兵乱のおかげで荒廃していたためである。

頼久寺 山門space.jpg頼久寺説明
左/頼久寺 山門  右/頼久寺 説明板

頼久寺 薬師堂space.jpg頼久寺 本堂
左/頼久寺 薬師堂  右/頼久寺 本堂  山門を入って左手に薬師堂、正面に本堂がある。本堂の右手が庫裏だそうだが、そこが庭園の入り口(受付)になっている。

小堀政一(遠州)(こぼりまさかず)は、利休七哲の一人である古田織部(ふるたおりべ)から茶道を学んだという茶人で、建築・作庭でも有名な人物だ。

慶長9年(1604年)に父 正次が亡くなって跡を継いだ小堀政一(遠州)だが、城下町の整備や備中松山城の修築などで功績を残した。ここ頼久寺には彼が作庭したといわれる枯山水の庭園が残っている。

頼久寺庭園
頼久寺 庭園 背景に見えるのが愛宕山。 真ん中の背の高い石のあるところが鶴島、奥の背の低い石のあるところが亀島

この庭園は蓬莱式枯山水庭園で、愛宕山(あたごやま)を借景して白砂で海原を表現し、中央には背の高い三尊の石組みとサツキの刈込みで作られた鶴島を、その背後には背の低い岩で亀の姿を表現した亀島を置いて蓬莱式の石組み(縁起の良い鶴・亀の石組みにより、長寿や繁栄を願ったもの)としている。

頼久寺庭園 鶴島
頼久寺庭園 鶴島の三尊石組 背の高い石の脇に背の低い石を配置し、仏教の三尊仏のようにしたもの。鶴島の右後ろにある背の低い石を置いているのが亀島。

庭園の奥のサツキの大刈込みは、青海波(せいがいは)を表現したものだそうだ。

青海波
もみじの左側の段々になっているサツキが青海波
青海波は、大海原に絶え間なく打ち寄せる穏やかな波を表現したもので、穏やかな暮らしがずっと続くようにという願いが込められているようだ。


美的センスのない私には抽象的すぎて、鶴だか亀だか良く分からなかったが、見ていると何か心が落ち着く風景だ。

よく見ると、メインの鶴島、亀島の庭に続く本堂と庫裏の間の庭にも富士山のような岩が置かれ、白砂が敷き詰められている。この小さな空間のおかげで、庫裏も庭の風景の中に組み込まれ、庭園に一層の広がりが感じられるのだと思う。

頼久寺 庭園 石灯籠space.jpg西念勧進の石灯籠
左/本堂と庫裏の間の庭 自分なら物置とか置きそうだけど、そんなみみっちいことしちゃ駄目だよね。  右/暦応2年(1339年 足利尊氏がこの寺を再興した年)に勧進された石灯籠

冬には雪が積もり、春になるとサツキの花が咲いて四季折々の景色を楽しめるらしい。

春になったらまた来てみたいなぁ・・・

頼久寺庭園のもみじ
今は桜もサツキも咲いてないけど、もみじは綺麗だった。今年は忙しくて紅葉狩りに行けなかったから少し嬉しい。




スポンサーサイト



備中松山城と高梁市④

備中松山城 その4

城内には、他のお城でよく見られる刀剣類の展示はなく、城の歴史や説明をしたパネルが展示してあった。
二の丸にあった案内板と合わせて読むと備中松山城の歴史がよく分かった。

二の丸の案内板space.jpg天守閣にあった城の歴史のパネル
左/二の丸にあった案内板。  右/天守閣のパネル いくつもあるパネルを読んでいくと城の歴史がよく分かる。

それによると、松山城の歴史は鎌倉時代の延応2年(1240年)に有漢の郷(現在の高梁市有漢町)の地頭となった秋庭重信が大松山に砦を築いたのが始めだそうだ。

高梁は山陰と山陽、東西の主要街道の交差する交通の要衝であったために争奪戦が繰り広げられ、上野氏、庄氏、三村氏と城主が代わったが、三村氏の頃には、大松山から小松山にかけて砦が築かれ、一大要塞となっていたという。

城見橋公園の案内板
鞴峠にあった案内板 大松山は今のお城のある小松山よりまだ高い所にある。

その三村氏も毛利に滅ぼされて松山城は落城し、御根小屋も焼失したらしいのだが、その時の戦い「備中兵乱(びっちゅうひょうらん)」の解説ビデオがお城の1階の装束の間で上映されていた。

備中松山城 装束の間space.jpg装束の間 外から見た写真
左/装束の間のテレビはビデオ観賞用  右/装束の間を外から見た写真 装束の間は城主一家の居室であり、いよいよとなると城主一家が最期を迎える場所でもあるという。

備中兵乱は、毛利氏と同盟関係にあった三村氏が、宿敵であった備前の宇喜多直家と同盟を結んだ毛利氏に反発して織田信長と同盟を結び、毛利氏に滅ぼされた戦いである。

備中兵乱解説のパネル
備中兵乱解説のパネル 宇喜多直家に父親を暗殺された三村元親は、弔い合戦として2万の軍勢で攻めた明善寺合戦で5千の宇喜多軍に大敗している。父の敵でもある宿敵の宇喜多と同じ毛利軍で戦うことはできなかったのだ。

三村一族もよく戦ったが、衆寡敵せず毛利の大軍8万の前に難攻不落の松山城も天正3年(1575年)5月に落城。三村元親は松連寺で自刃し、聡明だった元親の息子の勝法師丸は、将来を恐れた小早川隆景の命で殺害された。

備中松山城天守閣
備中松山城天守台 ここには秋になると秋冥菊が咲き乱れるという。しかも赤い色だけ・・・

備中松山城天守台周辺には、秋になると赤い秋冥菊が咲き乱れるという。赤い色のものしか咲かないことから、三村一族をはじめとする戦で散った人達の怨念ではないかともいわれているそうだ。

江戸時代になっても不幸は続く・・・

城主は毛利氏から奉行の小堀氏、池田氏と引き継がれたが、池田氏は継嗣がないためわずか2代で断絶。

その後に入った水谷(みずのや)氏は玉島新田の開発、高梁川の高瀬舟の整備などを行うとともに、城を大改修し、今の天守閣、二重櫓などを築いて藩の基礎を固めたが、これも継嗣がないためわずか3代で断絶。

二重櫓
二重櫓 お城の天守閣とつながって天守閣の北側を守っている。今の天守閣や二重櫓など、お城の大半は水谷氏が築いたものだ。

水谷氏から城を接収し、1年間城代を務めた播州赤穂藩の大石内蔵助は、吉良邸討ち入り事件で切腹している。

朝霧に包まれる姿が美しいと評判の城だが、意外にも人の悲しい歴史を見続けてきた城なのだということをお城に上がって初めて知ることができた。

私の中では、備中松山城に対する見方が少し変わったかも知れない・・・・

霧に包まれた備中松山城
そういわれてみると、霧に包まれる城は少し不気味だったような気が・・・妖気に包まれてるわけじゃ・・・ないよね・・・・





備中松山城と高梁市③

備中松山城 その3

二の丸からいよいよ本丸へ。

備中松山城天守閣
備中松山城天守閣 本丸は有料。大人300円。

天守閣は二層二階の作りだが、入り口部分(写真左側の部分)を含めると三層に見えるようにデザインされている。

中央の唐破風の出格子窓と、腰板(黒い板の部分)が横向きではなく、縦に張られているのが特徴的だ(竪板張り)。

唐破風の出格子窓space.jpg内側から見た出格子窓
左/出格子窓のアップ。竪板張りになっているのが分かるだろうか。他の城の多くは板を横に張ってある下見板張りという作りになっている。木を重ね合わせていく下見板張りと違い、竪板張りは隙間なく板を並べていく必要が有るので木の加工が難しく、現存の城では高知城の例があるくらいだ。  右/出格子窓内側 正方形の木をわざと木の角が外を向くように斜めにはめている。外からは見えにくく、内側からは外を狙えるようにという工夫だそうだ。

城の1階には囲炉裏が設けられており、この城が単なる権威の象徴ではなく、実戦に備えた城であった事を物語っている。

備中松山城の囲炉裏
城主の食事を作ったり、暖をとったりするために作られたようだ。

1階の北側には1段高くなった部屋があるが、そこは装束の間といい、籠城時には城主一家の居室となったところだそうだ。

備中松山城 装束の間
城主の居室。床下には忍びが入らないように岩を入れて隙間をなくしているそうだ。

狭くて急な階段を上がって二階に上がってみたが、思っていた以上に狭い。そこには御社壇(ごしゃだん)という神棚が設置してあり、3振りの宝剣が捧げられていたらしい。

備中松山城 天守閣2階space.jpg御社壇 説明
左/天守閣2階 結構狭い。30坪くらいかな?天井の梁もむき出しだ。  右/御社壇説明

御社壇space.jpg御社壇に捧げられていた宝剣の写真
左/御社壇  右/御社壇に捧げられていた宝剣の写真 この剣をつくらせるために大きなふいごが設置されたので、ふいご峠と呼ばれるようになったそうだ。高梁市歴史美術館に収蔵されているようだが、今回見に行けなかった・・・

このお城だが、ここで政務が行われていたわけではなく、城主は山の下にある御根小屋という建物に居住して政務を行っており、一般に登城というのは御根小屋に出仕することだったという。

御根小屋写真
御根小屋の図  江戸時代には「御城」とは御根小屋を差し、備中松山城は「御山城」と呼ばれていたそうだ。

そういえば、岩国城も山の下に「御土居」という建物を建てて政務を行ってた。

折角造ったお城だけど山の上に住むのは難しいし、毎日山の上に通うのは大変だからしょうがないよね・・・




備中松山城と高梁市②

備中松山城 その2

展望台を降りて、備中松山城に登るために市街地の方へと向かう。
途中の道路は霧で真っ白。視界が非常に悪いので、曲がりくねった道を慎重に走ってお城へ向かう。

高梁市への道
途中の道路は霧で真っ白。視界は50mくらいかな。展望台からお城までは10kmくらい。

備中松山城は日本三大山城の一つ。標高480mの臥牛山の4つの峰(「大松山」、「天神の丸」、「小松山」、「前山」)のうちの小松山の山頂(標高430m)にある。天守の現存する山城の中では最も高いところにあるそうだ。

備中松山城案内板
4つの峰を南から見ると草の上に付した老牛の姿に似ていることから「臥牛山(がぎゅうざん)と呼ばれるようになったそうだ。

平日は8合目のふいご峠の駐車場まで自家用車で登れるらしいのだが、残念ながら日曜日なので5合目の城見橋公園の駐車場に車を停め、シャトルバスに乗るか歩くかしなければならない。

城見橋公園駐車場space.jpg城見橋公園駐車場
左/城見橋公園駐車場 山の方は霧で覆われてほとんど見えない。時刻は9時20分  右/駐車場のもみじ  枝が霧に濡れて水滴がついているのが分かるだろうか。

バス乗り場のおじさんが歩くと40分、バスだと5分というのでバスに乗ったが、バスに乗れるのはふいご峠駐車場までの1.5キロくらい(歩いて15分くらいかな?)。そこからは、バスを降りて山道を1キロほど歩かなければならない。

備中松山城への道space.jpg備中松山城への道
左/結構急な山道 足の悪い人やお年寄りにはきついかも・・・  右/大儀であった・・・ほんとにしんどい。広島弁でたいぎい・・・

霧に包まれた山道を登ること10数分。立派な石垣と白い土塀が目に飛び込んできた。

備中松山城石垣space.jpg備中松山城石垣
山の中にそびえる石垣。天然の岩盤の上に石垣が作られ、その上に土塀が立つ。これぞ山城である。石垣の上は霧がなく、青空が広がっていた。時刻は9時53分。

山道から最初にくぐることになるのが大手門跡。

大手門跡space.jpg大手門推定復元図
左/大手門跡を城内から見た写真  右/大手門推定復元図 大手門は防御施設であると同時に権威の象徴だったので城の中で最大規模だったらしい。

備中松山城 復古図
お城全体はこんな感じ。大手門は図の左下あたり。

大手門は山道からまっすぐではなく、左側(東側)に向かって立つ。さらに大手門内部の道も直角に曲がっていて軍勢の勢いを削ぐように作られているそうだ。

大手門跡space.jpg大手門跡
左/大手門の上にある三の丸跡から見た大手門 山道からまっすぐに門に入れなくなっている。  右/大手門内部の道 土塀のところで折れ曲がっている。ここで兵を足止めし、大手門や三の丸から狙い撃ちできるようにしてあるのだろう。

曲がりくねるように作られた通路の曲がり角には櫓が設置してあり、山の高低差を利用した要害となっていたようだ。

三の平矢倉東土塀と天守閣への道space.jpg大手門から見たお城
左/三の平櫓東土塀 土塀の切れたあたりの曲がり角に「三の平櫓」という建物が建っていたようだ。 右/大手門跡から見たお城。今は建物や土塀がないので山の高低差を利用したお城の構造がよく分かる。

大手門を入ってすぐ見えるのが三の丸と足軽番所跡。

三の丸と足軽番所跡
三の丸と足軽番所跡

そこから100mくらい上がったところの左手あるのが、四の平櫓跡と黒門跡と御前棚の跡。通路の右手にあるのが厩曲輪。御前棚はかつて食事を作っていたところだが、現在はトイレになっている・・・

黒門跡付近の通路space.jpg厩曲輪
左/黒門跡付近の通路 通路の左側に四の平櫓という櫓、写真手前には黒門という門があったようだ。通路の右は厩曲輪と厩門という門があり、馬をつないでいたところだそうだ。

ちなみに、厩曲輪の土塀の一部は長年の風雪に耐えた現存建物。

厩曲輪の土塀
厩曲輪の土塀 かつては、石垣の上の全部に土塀が張り巡らされていたらしい。でないと、馬が落ちるからね。

黒門跡からさらに100mほど登るとようやく二の丸に到着。そんなに広くはないが、急な上り坂なので結構しんどい。

松山城 二の丸
二の丸 結構広い。ここには案内板やベンチなどがあり、観光客が休めるようになっている。

二の丸から下の方を見ると、一面の雲海が広がっていた。二の丸に与謝野寛氏の歌碑があり、「わが立つ城の四方(よも)しろくなる」とあるが、与謝野晶子、寛夫婦もおなじような風景を眺めたのかな?

備中松山城 二の丸から眺めた雲海space.jpg与謝野寛歌碑
左/二の丸から見た雲海 時刻は10時10分 右/与謝野寛 歌碑 1916年(大正5年)秋、与謝野晶子と夫婦二人で高梁を訪れた際に読んだ歌だそうだ。「松山の渓を埋むるあさ霧にわが立つ城の四方しろくなる 」と書いてある。





プロフィール

しんどいわ太郎

Author:しんどいわ太郎
いつの間にか、1年遅れになっちゃった・・・
別のブログを立ち上げる予定ですが、ここには季節ネタをちょくちょくあげて残しておくつもりです。
新しいブログにデータを移すのはめんどくさいからね・・・

最新記事
最新記事の地図
カテゴリ
カレンダー
プルダウン 降順 昇順 年別

12月 | 2015年01月 | 02月
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31


アクセスカウンター
リンク
天気予報
広告エリア










写真素材のピクスタ