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大久野島 ③ ~地図から消された島~

大久野島に残る戦争の遺跡 ②

北部砲台跡から300~400mほど進んだ所に火薬庫跡があった。

この火薬庫は明治時代の芸予要塞時代に造られたものだ。

火薬庫跡space.jpg火薬庫跡説明
左/火薬庫跡   右/火薬庫跡説明板

壁はレンガで丈夫に造られているが、屋根は木造・瓦ぶきの簡素なものだったらしい。爆発事故が起きた際に、爆風を上部に逃がすための工夫だったようだ。

火薬庫入り口space.jpg火薬庫の屋根
左/火薬庫跡入り口 煉瓦でできていていかにも丈夫そうだ。屋根はトタンだったのだろう。瓦は上の屋根から落ちてきたのかな?  右/火薬庫の屋根  瓦の一部がまだ残っている。

この施設も、毒ガス工場時代には毒ガスの保管庫として使われていたそうだ。また、朝鮮戦争の際に米軍がここを弾薬庫として使ったらしく、壁には「MAG1」という表示が残っている。

火薬庫跡内部space.jpg火薬庫跡
左/火薬庫跡内部 雑草が生い茂り、瓦が散乱している。  右/火薬庫の壁 壁にはMAG1の文字。もともと床は高床式だったようだが、今は土で埋まっている。

内部は雑草が生い茂り、もともとアーチ形の高床式だった基礎の部分や、入り口の階段も土で埋まってしまっている。どうやら保存とか修復とかいうことはまったく考えていないようだ。

過去の戦争の遺産としても、明治時代の建物としても貴重な文化財なのではないかと思うのだが、このまま朽ち果ててしまうのかと思うと非常に残念だ・・・

自転車のところに戻ると、ウサギが立ってお出迎え。餌は持ってないんだけどね・・・

自転車の傍で待っているウサギ
人間が帰ってくることを予測しているのかな?なかなか賢い。

火薬庫跡から300mほど下っていくと海にたどり着いた。しかも、フェリーの着いた第二桟橋のすぐ近くだ・・・・
本当に狭い島らしい。

発電場前の海space.jpg旧桟橋
左/発電場前の海 なかなか綺麗だ。 右/旧桟橋 発電場前にある旧桟橋 芸予要塞時代の桟橋。毒ガス工場時代も物資の搬入等に使われたみたいだ。

海には、芸予要塞時代に造られた旧桟橋があったが、その前の山(人口の土塁らしい)にはトンネルがあり、そこから古い建物が見えた。

発電場前のトンネルspace.jpgトンネル
人口の土塁とトンネル トンネルにはMAG2の文字。ここも朝鮮戦争時代は米軍の弾薬庫として使われたそうだ。

この建物は、毒ガス工場に電気を供給するために造られた発電所跡で、この島で最大級の建物である。

発電場跡
発電場跡 中に入って見たかったが、立ち入り禁止のため入れず。ネット上には中の写真を撮っている人が沢山いるので見てみるといいかも。

ここには重油を使ったディーゼル発電機が8基置かれて、工場に電気を供給していたそうだ。
しかし、戦局が悪化すると重油の供給が困難になり、海底に電源ケーブルを敷いて操業を続けていたらしい。

また、1944年11月から1945年4月までの間、動員学徒の女学生による風船爆弾の製造もおこなわれていたという。

発電場跡space.jpg発電場跡
発電場跡 ドアは外れ、ガラスは割れて荒れ果てた状態。戦争遺跡として保存したほうがいいんじゃないかなぁ。

当時の情勢がどうだったのかは知らないが、今の常識から考えて沢山の従業員の健康を害して毒ガスを作り続けたことや、風船爆弾の製造を行ったことなど、正気の沙汰とも思えない。

美しい海やかわいらしいウサギを見ていると忘れそうになるが、島に残された朽ちかけた戦争の遺跡は戦争の狂気と悲惨さを現在に伝えてくれている。

大久野島の海
今の海はとてもきれい。しかし、終戦直後には大量の毒ガスが投棄され、この海も汚染された。

もっと島を探索したかったのだが、昼過ぎからは天候が悪化し、吹雪きはじめたので宿に帰ることにした。
寒いのはお尻にも悪いしね・・・・

雪の降る大久野島
雪の降る第一桟橋 瀬戸内でこんなに雪が降るのは珍しい。日頃の行いが悪いせいなのか?ともあれ、寒さは痔の天敵だ。

雪の中のうさぎspace.jpg雪の中のうさぎ
雪の中のうさぎ 雪が体についてとても寒そう・・・

結局、夜まで吹雪いたりやんだりで異常に寒く、外に出る事もできなかった。ウサギももうちょっといじりたかったけど仕方がないよね・・・

宿から見た夕日
宿から見た夕日 天候は吹雪いたりやんだり。夕陽がきれいに見えたのだけが救いだった。




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大久野島 ② ~地図から消された島~

大久野島に残る戦争の遺跡 ①

休暇村で早めのお昼を済ませ、自転車を借りて姪っ子と一緒に島の探索へ。

きれいな海を眺めながら海岸線を走っていると、テニスコートのそばに毒ガス貯蔵庫が・・・
平和な日常風景の中に戦争の遺跡が出てくるのも少し不思議な気分・・・・

毒ガス貯蔵庫跡space.jpg貯蔵庫説明
左/テニスコート脇の毒ガス貯蔵庫 ここに80トンもの毒液が貯蔵されていたそうだ。柵があってこれ以上は近づけないので、中は見えない。  右/貯蔵庫の説明。

日本庭園跡
日本庭園跡 毒ガス貯蔵庫のすぐ隣に日本庭園跡があった。砲台が整備された頃のものなのか、それ以後のものなのかよく分からない・・・

テニスコート脇の毒ガス貯蔵庫は半分土砂で埋められていたが、そこから少し進んだところにある貯蔵庫は道路上からはっきりとその形を見ることができた。

長浦毒ガス貯蔵庫跡space.jpg長浦毒ガス貯蔵庫跡説明
左/長浦毒ガス貯蔵庫跡 黒く焦げた跡は、終戦後、毒ガスを火炎放射器で処理した時にできたものらしい。 右/説明板

説明文によると、大久野島で生産された毒ガスの総量は6616トン、生産された毒ガスは、イペリットガス、ルイサイトガス等で、年間生産量は多い年で1500トンにも及んだそうだ。毒ガス処理のために火炎放射器で焼かれた黒い焦げ跡が生々しい・・・

そこからさらに少し進むと道路から少し入ったところに北部砲台跡の案内版が立っていた。

北部砲台案内板
北部砲台案内板  砲台は日露戦争前に作られたもので、毒ガス工場が作られる少し前のものだ。

北部砲台は山の真ん中にトンネルを掘って通路とし、その両脇に2か所ずつ、計4か所の砲台が作られていたようだ。

砲台跡space.jpg北部砲台説明板
左/北部砲台跡 ここには24cm加農砲(カノン砲)が4門設置されていたそうだ。 右/説明板

砲台の下には砲側庫と兵舎が作られている。

北部砲台 砲側庫space.jpg北部砲台 兵舎
左/砲側庫 弾薬等を保管しているところ。半分、地下に隠して作ってある。 右/兵舎 丈夫そうだが、砲台の下で生活したくないなぁ・・・

砲台は日露戦争前くらいに作られたもので、第二次世界大戦前の毒ガス製造期には砲台としての役割は終えていたらしく、砲台前の広場に作られていた発電施設を撤去し、砲台にも台座を置いて毒ガスタンクを設置していたそうだ。

砲台跡に設置された毒ガスタンク用の台座
北部砲台 砲台跡に設置された毒ガスタンク用の台座 島の至るところに毒ガスタンクが置かれていたようだ。

24cm加農砲(カノン砲)の設置されていたメインの砲台から少し離れたところには12cm速射加農砲が設置されていたという砲台跡が残る。

北部砲台跡space.jpg北部砲台 説明板
左/12cm速射加農砲 砲台跡 右/砲台の説明板 頑丈に造られている。少々の砲撃なら耐えられそうだ。

北部砲台跡から山道を登り、中部砲台跡と展望台に上がってみようと思ったのだが、山道が結構きついうえに、天候が急速に悪化してきたため、中部砲台跡をちらっと見ただけで引き返すことにした。

展望台も見たかったのに、少し残念・・・・・・

中部砲台跡への山道space.jpg山道から見た海
左/中部砲台への山道 姪っ子が「しんどい、しんどい」と言うので引き返すことに。おじさんより体力がないのもどうかと思うのだが・・・  右/山道から見た海 朝は晴れていたのに、午後になって雲が広がってきた。しかも、雪がちらつき、とても寒い。

中部砲台跡
中部砲台跡 上からちらっと見ただけでよく見ることはできなかった。

山の上のウサギたちspace.jpg山の上にいたウサギ
山の上にいたウサギたち こんな山の上にもウサギがたくさんいることに驚かされる。

もう少し暖かくなったら、一人でゆっくり回ってみようかな。







大久野島 ① ~地図から消された島~

大久野島~うさぎの島~

年末年始に神奈川に行く予定だったのだが、持病の痔が悪化したため断念・・・

痔の療養も兼ね、両親と姪っ子を連れて温泉のある休暇村大久野島に行くことにした。

大久野島は竹原市忠海(ただのうみ)の沖合3kmに浮かぶ周囲4.3kmの島。

忠海港space.jpgフェリー
左/忠海港   右/フェリー 小さな連絡船も運航している。忠海港から約10分。島への車の乗り入れは基本的にできない。

大久野島には、日清・日露戦争の勃発という緊張した情勢の中、1902年に芸予要塞大久野島堡塁として22門の砲台が設置された。第一次大戦後は毒ガス製造工場が作られ、その存在を隠すために地図から消された島として知られている。

また、島内には700羽以上のウサギが生息しており、うさぎの楽園としても有名だ。

大久野島 第二桟橋
大久野島 第二桟橋 右側の小さな船が連絡船。

忠海港からフェリーに乗って大久野島に着いたのが午前10時30分。船の着く第二桟橋から無料の送迎バスに乗って、休暇村へ。

たくさんのウサギ
休暇村前の広場にいたウサギたち アニメたまゆらでも出てきたから知っている人もいるかな?

休暇村の前の広場には、たくさんのウサギが・・・

どうしてウサギが増えたかについては諸説あり、毒ガス工場で実験用や毒ガス検知用に飼われていたウサギが戦後放置されて増えたという説もあるが、1971年に地元の小学校で飼われていた8匹のウサギが放されて野生化し、増えたという説が有力なようだ。

餌をねだるウサギ
餌をねだるウサギたち 休暇村で餌を買おうと思ってきたのに、休暇村では餌の販売がない・・・船に乗る前にキャベツや白菜を買っておくのがお勧めだ。

人間が近づくとウサギたちはひょこひょこと近づいて来て餌をねだってくる。しかし、なにも持ってないのが分かるとしれーっと去っていく・・・

駆け寄ってくるウサギたちspace.jpg膝に乗ってくる奴まで・・・
左/私の姿を見て駆け寄ってくるウサギたち  右/膝に乗ってくる奴まで・・・ 「熱烈歓迎!」って感じ?

公園に近づいた時は一瞬、人気者になれたのに・・・

穴を掘るウサギspace.jpgねぐら(?)に戻ったウサギ
餌をやらないとみんな去っていく。穴を掘りはじめる者もいれば、ねぐら(?)に戻る者も・・・さっきまでの歓迎ぶりが嘘のよう・・・・

まぁ、世の中、そんなもんだよね・・・・・・・





縮景園②

原爆慰霊碑から西は少し植生の濃いエリアだ。

このちょっとした森のようなところに、茶室の明月亭がある。

緑も多いし、京橋川の風情も楽しめる居心地の良い場所だったに違いない。

明月亭space.jpg明月亭説明
左/明月亭 山の中の庵という感じ。なかなか居心地がよさそう・・・  右/明月亭説明

明月亭
明月亭 窓としてはめられた車輪が特徴的。

明月亭の裏には、かつてのため池の跡もあった。

ため池跡space.jpgため池説明
ため池跡 かつては牛田(広島駅の北側の山の方)から水を引いて、白龍泉から濯纓池に水を引き込んでいたそうだ。

白龍泉
白龍泉 人工の滝だ。

濯纓池の水は、今は京橋川の水と地下水を利用しているようだが、かつては牛田(うした 広島駅の北西の地名)からわざわざ引き入れた水も利用していたようだ。

京橋川space.jpg濯纓池の鯉
左/縮景園から見た京橋川   右/濯纓池の鯉 京橋川は汽水(海水の混じった水)なんだけど、鯉は大丈夫なのだろうか?濯纓池には、鱸やボラも入り込むらしい・・・

明月亭から池をぐるっと回ると庭園の西のエリアに着く。
ここには、夕照庵(せきしょうあん)という茶室や超然居(ちょうぜんきょ)という四阿(あずまや)の他、調馬場や梅林などがある。

夕照庵(せきしょうあん)space.jpg夕照庵(せきしょうあん)
夕照庵(せきしょうあん) 茅葺で面積8㎡ほどの小さな建物。

超然居(ちょうぜんきょ)space.jpg超然居(ちょうぜんきょ)説明
超然居(ちょうぜんきょ)

西のエリアは紅葉やカエデなどが多く植えられ、庭園の中では紅葉が一番きれいだった。

夕照庵(せきしょうあん)と紅葉space.jpg紅葉のアップ
左/夕照庵(せきしょうあん)と紅葉  右/紅葉のアップ 少し来た時期が遅すぎたので葉が赤一色。もう少しグラデーションとかあった方がよかったなぁ・・・

超然居の近くをうろついているとき、カワセミを見かけた。
駅近くで繁華街やオフィス街のすぐ近くなのに、緑が多い庭園は鳥たちの憩いの場になっているのかな?

超然居のそばにいたカワセミspace.jpg水心島にいたアオサギ
左/超然居の近くにいたカワセミ 右/濯纓池最大の島 水心島(すいしんとう)にいたアオサギ

清風館前にいたジョウビタキ
清風館前にいたジョウビタキ 都会のど真ん中とは思えないほど鳥がいる。自然の残ったところには集まってくるのかな?

お目当てのライトアップは17時頃から始まった。

紅葉の見ごろは少し過ぎた感じで全体的に赤が強すぎる気はしたが、濯纓池に映り込んだ紅葉は幻想的でとても美しかった。

縮景園のライトアップspace.jpg縮景園のライトアップ
ライトアップされた縮景園

縮景園のライトアップspace.jpgライトアップされた紅葉のアップ
縮景園のライトアップ

縮景園のライトアップspace.jpg縮景園のライトアップ
縮景園のライトアップ

人が多すぎて、どうにも落ち着かなかったけどね・・・・




★★★★★Data★★★★★★★★★★

1.お出かけした日: 2014年11月29日(土)
2.しんどいわポイント(しんどさを表わします):★★☆☆☆
(距離が近いのはいいけど、人が多いのがちょっとね・・・)
3.目的地までの所要時間:36分
4.走行距離:24Km +6094歩( 徒歩4.4Km)
5.消費エネルギー:ガソリン1.2ℓ+149.7Kcal (ガソリンはリッター20Kmで計算)
6.地図はこちら



縮景園 ①

11月22日から30日まで縮景園で「もみじまつり2014」というのが開かれ、もみじのライトアップが行われるというので行ってみる事にした。

縮景園は広島城の北東、京橋川沿いにある回遊式(歩いて見て回る形式)の日本庭園だ。

元和(げんな)6年(1620)、広島藩主 浅野長晟(ながあきら)(浅野初代藩主)が家老で茶人の上田宗箇に別邸として作らせたのがはじまりで、歴代藩主によってたびたび改修が行われている。

七代藩主 浅野重晟(しげあきら)が京都の庭師 清水七郎右衛門に行わせた大改修では、跨虹橋(ここうきょう)をはじめ、現在の庭園の原型ができたといわれている。

跨虹橋(ここうきょう)
跨虹橋(ここうきょう)と清風館

昭和15年(1940)に浅野家から広島県に寄付され、国の名勝にも指定されたが、昭和20年(1945)8月6日、原爆によって壊滅した。

戦後、少しずつ復旧がすすめられ、昭和26年(1951)には開園、1970年代にはほぼ復旧が完了している。

被爆直後の縮景園
被爆直後の縮景園 園内は避難場所と水を求める人であふれかえり、ここで多くの人が亡くなった。

庭園には濯纓池(たくえいち)という大きな池が造られ、そのほぼ中央に清風館(せいふうかん)という大きな茶室と跨虹橋(ここうきょう)が、池の周囲には四阿(あずまや)や小高い山が造られている。

清風館space.jpg清風館説明
左/清風館 庭園入り口から入ってすぐの所にある。中ではよく茶会とか開かれているので、いまだに中に入ったことがない・・・   右/清風館説明

濯纓池(たくえいち)space.jpg濯纓池(たくえいち)の説明
左/濯纓池(たくえいち) 面積は8,020㎡で、敷地の20%を占めるそうだ。 池には大小約10個の島が並び、鶴と亀をかたどっているらしい。頼久寺庭園もそうだが、日本庭園ではよくある形式。でも、私にはどれが鶴でどれが亀かさっぱり分からない・・・

夕方のライトアップには時間があるので、園内をぐるりと回ってみる。

まずは、庭園の東側のエリアへ。

ここには、迎暉峰(げいきほう)という園内最大の山があり、その山の周りには有年場(ゆうねんじょう)という小さな水田や、香菜圃(こうさいほ)という茶畑、薬草園などが造られている。

迎暉峰(げいきほう)と有年場space.jpg迎暉峰(げいきほう)説明
左/迎暉峰(げいきほう)と有年場 迎暉峰は高さ10m。園内最大の山。有年場は小さな水田で、藩主が田植えをして五穀豊穣を祈ったそうだ。   右/迎暉峰(げいきほう)説明 今はビルしか見えないが、かつてはここから似島(にのしま)や弥山(みせん)(宮島にある山)を望むことができたという。江戸時代は今の2号線の辺りが海岸線だったようだ。

迎暉峰(げいきほう)からの眺望
迎暉峰(げいきほう)からの眺望。中央に見えるのが跨虹橋。その右手のもみじの傍にある四阿(あずまや)が悠々亭(ゆうゆうてい)。かつては、茶会や歌会が行われていたそうだ。

迎暉峰に登る途中には、原爆に耐えた大銀杏や、藩主が京橋川の桃や行きかう舟を眺めたという看花榻(かんかとう)もある。

大銀杏space.jpg看花榻(かんかとう)
左/原爆に耐えた数少ない木の一本 大銀杏。来た時期が遅すぎたのですでに丸裸・・・  右/看花榻(かんかとう) 座席がロクロ式になっていて回転するようになっていたそうだ。藩主がここで、川舟や川岸の桃の花を鑑賞していたらしい。

迎暉峰(げいきほう)から西に歩いて庭園北側のエリアへ。

ここには、かつて稲荷神社があったという祺福山(きふくざん)と、その裏側にひっそりと原爆死没者の慰霊碑が佇んでいる。

祺福山space.jpg原爆慰霊碑
左/祺福山(きふくざん) 頂上には、広島藩の繁栄を願い、稲荷神社が建てられていた。 右/原爆慰霊碑 被爆後の縮景園には、おびただしい数の被災者が避難して来て多くの人がここで亡くなった。裏土手には、足の踏み場もないくらいの遺体が折り重なっていたという。この慰霊碑は1枚の写真から発掘された64体の遺体が発見された場所に建てられたものである。

慰霊碑が地味なせいもあるのか、原爆慰霊碑を気に留める観光客は多くはないが、70年前にこの庭園も火に包まれて多くの人が逃げまどい、沢山の人々がここで亡くなった。突如として平穏な生活を奪われ、恐怖と苦痛を味わうことになった数多くの人々のことを想いながら、静かに手を合わせる。

いつまでも平和な時代が続けばいいんだけどね・・・・




備中松山城と高梁市⑦

高梁市の町並み その2

石火矢町ふるさと村から北側に歩くと小高下谷川(ここうげたにがわ)という小さな川に行き当たる。

この川はかつて備中松山城の内堀としての役割を果たしていた川だそうだが、川沿いの道を200mほど西側に歩くと本町という立派な商家の建ち並ぶ通りがあった。

高梁 本町の町並みspace.jpg本町 説明
左/本町の町並み  右/本町の説明

町中に建てられた案内板によると、本町は代官として赴任した小堀氏が城下町を整備した際に商家の町として整備され、松山藩主 水谷(みずのや)氏が高梁川の高瀬舟の航路と発着場を整備したことにより発展したものだということだ。

本町の町並みspace.jpg本町の町並み
本町の町並み 江戸時代からの風情を残した町並みは「備中の小京都」と呼ばれている。


高梁市商家資料館

そんな風情のある町並みの中に一際立派な商家が建っており、無料休憩所の看板が立っていた。

高梁市商家資料館
高梁市商家資料館 池上邸

この商家は、享保年間に小間物屋を始め、その後、両替商、高瀬舟の船主等を営み、明治28年に醤油の製造販売を始めて財を成した豪商 池上氏の屋敷だそうだ。

高梁市商家資料館 帳場と醤油樽space.jpg高梁市商家資料館 醸造場
左/帳場と醤油樽 昔はお客さんが容器を持ってきて量り売りをしていたそうだ。 右/醸造場 昭和37年まで営業していたらしい。

広い屋敷の中には立派な庭園もあり、往時の繁栄ぶりがうかがえる。

高梁市商家資料館 庭園
高梁市商家資料館 庭園 

屋敷内には何故か雛人形の展示もあった。3月になるとひな人形を町に飾るお祭りが開かれるらしい。

桜の咲くころにまた来なくちゃね。

商家資料館のひな人形space.jpg商家資料館のひな人形
商家資料館のひな人形


山中鹿介の墓

福山の鞆の浦に行った時から一度訪れてみたいと思っていたのが、山中鹿介(やまなかしかのすけ)の墓だ。

鞆の浦には切り取られた首だけが送られたために首塚しかなかったので、胴体の葬られた墓にお参りしたかったのだ。

山中鹿介の墓space.jpg山中鹿介幸盛公400回忌記念句碑
左/山中鹿介の墓 備中松山藩主・石川総慶の家臣・前田時棟が、正徳3年(1713年)に建てたものらしい。立派なものだが、鹿介の遺体を葬った場所ではない。  右/山中鹿介幸盛公400回忌記念句碑 「四百年 瀬音の哭くや 鹿公忌」と書いてあるらしい。

毛利に滅ぼされた尼子家を再興するため、幾度となく毛利氏に挑み続けた鹿介は、忠義の士として人気の武将。

しかし、何事にも終わりというものはあるものだ。

織田信長の中国攻めに加わって播磨の国 上月城(こうづきじょう)を一度は占領した鹿介だったが、天正6年(1578年)、毛利氏の反撃にあって上月城は落城し、尼子勝久は切腹、鹿介は捕えられてしまう。

鞆の浦の毛利本陣に護送されるはずだった鹿介だが、鹿介の武勇を恐れた毛利氏により、途中の阿井の渡しで暗殺された。

阿井の渡し
阿井の渡し?(推定)場所は落合橋西詰めのローソンの隣。

その阿井の渡しが高梁市内にあり、鹿介の墓があるのは知っていたのだが、観光案内所でもらった地図はアバウトすぎて場所がさっぱり分からない。車であたりを20分ぐらいグルグルと探し回るはめになってしまった・・・

しかも、ここは鹿介の亡くなった阿井の渡しに建てられた記念碑のようなもので、本当にお参りしたかった胴塚は近くの観泉寺にあるという。

思い付きでなく、ちゃんと下調べしてから来ないと駄目だね・・・



★★★★★Data★★★★★★★★★★

1.お出かけした日: 2014年11月23日(日)
2.しんどいわポイント(しんどさを表わします):★★★☆☆
(次の日も早朝から仕事なので帰りも高速使用。楽ちんだが、ますます貧乏に・・・)
3.目的地までの所要時間:150分
4.走行距離:381Km +7934歩( 徒歩5.7Km)
5.消費エネルギー:ガソリン19.05ℓ+171.2Kcal (ガソリンはリッター20Kmで計算)
6.地図はこちら


備中松山城と高梁市⑥

石火矢町ふるさと村

頼久寺から北側に歩いて石火矢町ふるさと村の武家屋敷へ。

石火矢町ふるさと村の看板
石火矢町ふるさと村の看板 石火矢町と紺屋川美観地区(紺屋川沿いの町並み)が石火矢町ふるさと村として指定されている。
岡山県は、ここを含めて七つの地域を「ふるさと村」として指定している。


石火矢町は御根小屋跡(現在は県立高梁高等学校)の南側にあり、かつては中級武士の屋敷が建ち並んでいたという町だ。

今でも通りの両脇に格式ある門構えの武家屋敷が250mほど続き、江戸時代からの景観をよく残していることから、昭和49年12月に石火矢町ふるさと村として町並み保存地区に指定された(岡山県は独自の事業として「ふるさと村」という町並み保存地区を指定している)。

石火矢町の町並み
石火矢町の町並み 白い土塀と立派な門構えの屋敷が建ち並ぶ。

現在石火矢町には、旧埴原家と旧折井家という2軒の武家屋敷が公開されている。


旧折井家

石火矢町の北側、御根小屋に近い方にあるのが旧折井家。
折井家は禄高200石前後で軍役を掌る物頭格だった家で、この建物は、今から180年前の天保年間に建てられたものだそうだ。

旧折井家space.jpg旧折井家 式台と玄関
左/旧折井家 門  右/旧折井家式台と玄関

式台から玄関を入り、右に進むとすぐに土間と台所に出る。

旧折井家 式台と玄関space.jpg旧折井家 玄関
左/旧折井家 式台 右/玄関 玄関では挨拶をする下男がお出迎え。武家らしく、槍が備えてある。

台所には女部屋があった。女中さんの部屋なのだろうが、狭くて日当たりが悪い部屋は彼女たちの当時の地位を示すものといえそうだ。

旧折井家 台所space.jpg旧折井家 女人部屋
左/台所 かまどもある。  右/女部屋 女中さんが住む部屋だったんだろう。かなり日当たりが悪い・・・

台所から入っていくと玄関の裏に出る。ここが居間で、次の間が奥座敷になっている。建坪は37坪ほどということで決して広くはない。

旧折井家 玄関から奥が居間 左手が次の間space.jpg旧折井家 奥座敷
左/旧折井家 玄関から見た居間  右/旧折井家 奥座敷

奥座敷からは庭が見える。庭には野菜が植えられ、池には鯉が飼われて非常時に備えていたそうだ。

次の間から見た奥座敷space.jpg奥座敷から見た庭
左/玄関横の次の間から見た奥座敷  左/庭  池には非常食として鯉が飼われていたそうだ。

庭には資料館があり、鎧などが展示されていた。

旧折井家 庭space.jpg旧折井家 資料館
左/旧折井家 庭  右/旧折井家 資料館 庭に資料館が設けられている


旧埴原(はいばら)家

旧折井家から少し南側(頼久寺側)にあるのが旧埴原(はいばら)家。

埴原(はいばら)家は、江戸時代中期から後期にかけて120石から150石で近習役や番頭役などを勤めた家らしい。

旧埴原(はいばら)家 門space.jpg旧埴原(はいばら)家 案内板
左/旧埴原(はいばら)家 門 入場料は旧折井家と共通で400円。  右/旧埴原(はいばら)家 案内板

身分や禄高は折井家と変わらないのだが、備中松山藩主 板倉勝政公(備中松山藩第4代藩主)の母親の実家であったために寺院建築や数寄屋(茶室)風の要素を取り入れた豪華な造りになっており、高梁市の重要文化財に指定されている。

旧埴原(はいばら)家 式台と玄関
旧埴原(はいばら)家住宅 式台と玄関 旧折井家に比べると式台も広く、凝った造りになっている。

旧埴原(はいばら)家 式台の水引虹梁space.jpg旧埴原(はいばら)家 式台の蟇股
旧埴原(はいばら)家 式台には寺院風の装飾がされている。(左/若葉の装飾のされた水引虹梁 右/梅鉢の家紋のついた蟇股)

玄関内と玄関奥の次の間は、数寄屋風に壁は朱色、玄関には棚が設けられており、簡素な旧折井家との違いがはっきりと分かる。

旧埴原(はいばら)家 玄関space.jpg旧埴原(はいばら)家 玄関
旧埴原(はいばら)家玄関 天井には槍や弓が備えられている。壁が朱色の数寄屋風。棚には山田方谷4歳の時の書「風月」が飾られている。

旧埴原(はいばら)家 次の間space.jpg旧埴原家 次の間の書の解説
ここも壁が朱色。床の間は床柱を省略して、数寄屋風になっている。床の間に飾ってあるのは藩主 板倉勝職(かつつね)の書

玄関から右側(南側)にあるのが座敷と奥座敷。座敷は10畳、奥座敷は4畳半でそれほど広くはないが、床の間の違い棚や天袋、欄間の意匠など、ここでも折井家との違いがよく分かる。

旧埴原家 座敷space.jpg旧埴原家 奥座敷
左/旧埴原家 座敷   右/旧埴原家 奥座敷 床の間には山田方谷の「神農」の書が飾られている。

奥座敷から玄関の奥の次の間からは居間と台所に行けるようになっている。

旧埴原家 居間space.jpg旧埴原家 台所
左/居間 仏壇が置いてあるらしい。広さは6畳 右/台所と土間 床は板敷で簡素なつくり。

庭はそれほど広くはないが、土蔵が設けられていた。

旧埴原家 庭
庭にある土蔵。武具などをしまっていたのだろうか?

有名な武将の屋敷というわけではないし、何か特別なものが展示されているわけでもないのだが、一般の中級武士の暮らしぶりが偲ばれる建物は想像力をかきたててくれる。歴史好きの人にはおすすめだ。





プロフィール

しんどいわ太郎

Author:しんどいわ太郎
いつの間にか、1年遅れになっちゃった・・・
別のブログを立ち上げる予定ですが、ここには季節ネタをちょくちょくあげて残しておくつもりです。
新しいブログにデータを移すのはめんどくさいからね・・・

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