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宮島 ④ ~神の島~

もみじ歩道へ

多宝塔から5分ほど歩くと赤い橋と大きなお寺が見えてくる。このお寺は大聖院(だいしょういん)といい、真言宗御室派の大本山で、代々の座主は厳島神社の祭事を掌る別当職も務めたという。

大聖院space.jpg大聖院 解説
大聖院 真言宗の名刹。また秋にでもゆっくり見学しようかな。

その前には町が広がっており、大聖院のすぐ近くに古くから厳島神社の神職を務めたという林家の住宅 上卿屋敷(しょうけいやしき)がある。

上卿屋敷(しょうけいやしき)space.jpg上卿屋敷 解説
上卿屋敷(しょうけいやしき) 入り口は普通だが奥行がものすごく広い。中は見られないけどかなり立派な邸宅のようだ。

少し分かりにくいが、上卿屋敷と大聖院の間にもみじ歩道の入り口があり、厳島の戦いの案内板が立っている。

そこには、塔の岡に本陣を移した陶晴賢が、毛利軍の奇襲を受けて総崩れとなり、大内家の名将 弘中 隆包(たかかね)・隆助親子が、この場所で毛利軍の猛攻を防ぎ、陶晴賢を大元浦へと逃がしたことが書いてあった。

弘中 隆包の手勢は、その後、駒ケ林の山中に逃げ込んで3日間奮戦したものの、全滅したといわれている。

もみじ歩道入り口付近space.jpg瀧小路の戦いの解説板
もみじ歩道入り口 瀧小路の戦いの古戦場だ。

静かな自然歩道を歩いていると、かつてここで激しい戦闘が行われたことなんて信じられないけど、神の島と言われたここ宮島でさえ、戦国時代には戦争と無縁ではいられなかったんだね。

もみじ歩道から見た厳島神社space.jpgもみじ歩道から見た五重塔と豊国神社
左/もみじ歩道から見た厳島神社 厳島神社の戦いの時は逃げまどう兵士たちでひどい有様だったんだろう。 右/もみじ歩道から見た五重の塔と豊国神社(千畳閣) 五重の塔の辺りが、陶晴賢が本陣を置いたところ。当時は豊国神社はなかったが、五重の塔はあったはずだ。

光明院前

もみじ歩道からいったん厳島神社の裏に出て、宮島グランドホテル前の階段を上がると光明院へと出られる。

反橋と五重の塔space.jpg民家と桜
左/厳島神社 反橋と五重の塔 庶民が通れない反橋。別に渡ってみたいわけじゃないんだからね。右/民家と桜 庶民には民家脇の桜の方がいいよね。

光明院は室町時代に創建された浄土宗の古刹で、宮島の恩人として知られる誓真(せいしん)和尚が修行をした寺として有名である。

お寺の前には誓真和尚の徳を偲んだ記念碑が建てられ、周りには沢山の桜の木が植えられている。

誓真和尚大徳碑space.jpg誓真和尚大徳碑前の桜
左/誓真和尚大徳碑  右/誓真和尚大徳碑前の桜   まぁ、どこの桜も見分けはつかないけどね・・・

誓真和尚は、宮島の人のために井戸を掘ったり、石畳を作ったり、宮島の人に仕事を与えるために木のしゃもじを考案した人らしいけど、和尚の遺徳のおかげで桜を見てゆっくり休めたので本当に感謝。

光明院前から見た五重塔と豊国神社
光明院前から見た五重塔と豊国神社 光明院前からは五重塔がよく見える。もうちょっと天気が良かったら最高だったんだけどなぁ・・・



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宮島 ③ ~神の島~

経塚(清盛塚)

清盛神社から橋を渡ると宮島水族館のすぐ近くに出られる。

宮島水族館
宮島水族館

水族館の脇をすり抜け、その近くの小さな丘を目指す。

あまり人が登っているのを見たことはないのだが、ここには経塚(清盛塚)があるのだ。

経塚(清盛塚)space.jpg経塚 案内板
左/経塚(清盛塚) 右/案内板

呉の音戸の瀬戸にも清盛塚というのがあって、人柱を嫌った清盛が小石一つに一つの経文を書いて海に沈めたといういわれがあるのだが、ここには一族の繁栄を祈った清盛が一字一石経を納めたという逸話が残っている。

話の真偽は明らかではないのだが、この場所からは平安時代の物とみられる経筒や刀などが発掘されているらしい。本当だとするとなぜ神社やお寺ではなく、こんなところにそんなものを納めたのか、歴史のロマンを感じさせてくれる場所ではある。

清盛塚階段space.jpg清盛塚から見た多宝塔
左/清盛塚への階段 登るときはいいけど、下りはちょっと怖い・・ 右/清盛塚から見た多宝塔 少し高い所なので眺めはいい。

ものすごく急な階段を上がったところなので、油断しているとちょっと危ないけど・・・・

あせび歩道と多宝塔

いったん水族館の前に戻り、そこから山の方へ入っていく。ここはあせび歩道といい、春は桜が綺麗な場所だ。

宮島地図
宮島地図 あせび歩道からもみじ歩道、うぐいす歩道と歩いていくのが私の定番の散策コースだ。

神の島として人間の開発手が及ばなかった宮島には多くの自然が残っており、自然歩道を散歩するのがとても気持ちがいい。

あせび歩道入り口付近space.jpgあせび歩道入り口付近
あせび歩道入り口付近 宮島には原生林が残る。散策には最適だ。

あせび歩道の桜space.jpgあせび歩道の桜
あせび歩道の桜 桜が沢山植えられている。お花見には最適なところだ。

歩くこと10分ほどで、多宝塔に到着。ここからは鳥居と桜が綺麗に見えるので、写真を撮ったり、お花見をしたりする人が沢山いた。

多宝塔から見た大鳥居space.jpg多宝塔前
左/多宝塔近くから見た大鳥居   右/多宝塔の前付近

多宝塔の前には、勝山城跡と書かれた石碑が建てられている。

勝山城跡と書かれた石碑space.jpg多宝塔
左/勝山城跡と書かれた石碑   右/多宝塔  大永3年(1523年)に建立されたといわれている。中には本尊として薬師如来像が祀られていたが、現在は厳島神社のそばの大願寺に移されている。

ここ勝山城は、1555年、毛利元就と陶晴賢が戦った厳島の戦いで、陶晴賢が最初に本陣を置いたところだ。

岩国付近から出発し、宮島の大元浦に上陸した陶晴賢はここに本陣を置き、元就方の宮尾城と対峙している。

今は石垣も建物の跡も残っていないのだが、ここにどんな建物が有って、陶晴賢がどんな思いでここからの景色を見ていたのか、とても興味をそそられる場所だ。

勝山城跡から見た大鳥居
勝山城跡から見た大鳥居    陶晴賢の兵力は船500艘、兵力2~3万と言われている。多宝塔の下の辺りは、陶晴賢の軍勢で埋め尽くされていたのだろう。大軍を眼下に見て彼は何を考えていたのかな?





宮島 ② ~神の島~

厳島神社②

長い廻廊を通って本社 拝殿へ。廻廊の途中には鏡の池という池がある。池と言っても水が張られているわけではなく、満潮になると海の水が入って池になる仕組みである。

ちょっとした中庭のようなものなのだが、そこには卒塔婆石と康頼燈籠というのがある。これは、1177年(安元3年)、鹿ケ谷の陰謀で平家打倒の密儀を行って拘束され、薩摩の国 鬼界ヶ島(きかいがしま)に流された平康頼(たいらのやすより)にゆかりのあるものだそうだ。

鏡の池と卒塔婆石
鬼界ヶ島は、今の硫黄島か喜界島ではないかといわれており、そこから卒塔婆を流して厳島神社に流れ着くことは考えにくいのだが・・・

流刑先で京都の母親を偲んで歌を書いた卒塔婆を流したのだが、そのうちの一本がここに流れ着き、それに心を打たれた平清盛が罪を許して帰京を許したという。

康頼燈籠
康頼燈籠 罪を赦された平康頼は、神に感謝してこの燈籠を寄進したという。

平清盛が造営した神社に平家打倒を図った平康頼にゆかりのあるものがあるのも不思議な感じだが、平清盛の寛大さや偉大さをアピールしたかったのかもしれない。


本殿と平舞台、高舞台
本殿と平舞台、高舞台

そこから少し歩くと本社の拝殿に到着するのだが、拝殿の前には平舞台という広い板敷の広間があり、とても開放感のある作りになっている。

平舞台は寝殿造りでは庭にあたる部分らしく、海に突き出た火焼前(ひたさき)という部分の両脇には門客神社(かどまろうどじんじゃ)という神社があり、御門の神様が祀られている。

火焼前(ひたさき)と門客神社
火焼前(ひたさき)と門客神社 海に突き出したところが火焼前(ひたさき) 管弦際の出御、還御はここから行われる。もともとは、海から鳥居の下をくぐってお詣りしていたというのだから、ここが神社の門にあたるのかもしれない。

また、平舞台には高舞台という一段高くなったところがあるが、これは平清盛が大阪 四天王寺から移したという舞楽が演じられるところで、結婚式や祭りの時には舞楽が演じられている。

高舞台
高舞台 舞楽が演じられる。

平家一門の氏神とされた厳島神社だが、平氏が滅んだ後も時の権力者や大名から崇拝され、守られてきた。
本社 拝殿から出口までの間にある能舞台や反橋(そりばし)は毛利氏によって造られたものだそうだ。

厳島神社 能舞台space.jpg反橋(そりばし)
左/能舞台  右/反橋(そりばし) 毛利氏によって再建されたという。天皇からの勅使のみが通ることを赦されたらしく、我々庶民は通れない。登るときはいいけど、下るときにひっくりかえりそうだから別にいいけどね。

西の松原、清盛神社

厳島神社の出口を出て、神社西側の松原を通って神社と鳥居を眺めてみる。

西の松原から見た厳島神社
西の松原から見た厳島神社 天気が良ければ、空や海がきれいに見えるんだけど・・・

ほとんどの観光客は厳島神社から民俗資料館や五重塔へと行ってしまい、西の松原を歩く人は多くはないのだが、天気がいい日はここから見える厳島神社や大鳥居の眺めは非常に良いので、宮島に来たらちょっと足を延ばしてみるのもいいかも・・・

天気の良い日の大鳥居
天気の良い日の大鳥居 3年前の写真

清盛神社もあるしねっ!

清盛神社
清盛神社 昭和29年に平清盛の遺徳を偲んで建てられた。大河ドラマ 平清盛放映時はちょっと話題になったんだけど、今は・・・





宮島 ① ~神の島~

宮島へ

折角平日に休みが取れたので、久しぶりに宮島に行ってみることにした。実に3年ぶりである。

朝食をすませ、6時30分に家を出発。

しかし、生憎の曇り空。天気予報は晴れと言っていたのに・・・
前日仕事をしていたのが悔やまれる。

フェリーから見た厳島神社
フェリーから見た厳島神社 どんより曇り空。空の色も悪いが、海の色がまっ黒なのが残念。宮島にはJRと広電の2社がフェリーを出しているが、厳島神社により近い航路を取るJRの方がおすすめ。

どんよりとした曇り空にテンションはまったく上がらないが、とりあえず厳島神社を目指す。

宮島桟橋から厳島神社へ向かって5分ほど歩いたところに、二位殿燈籠という石燈籠がひっそりと建っている。

二位の尼の石燈籠
二位の尼の石燈籠 

ここ有之浦には、壇ノ浦の合戦に敗れ、幼い安徳天皇とともに入水した二位の尼(平時子:平清盛の正室)の遺体が流れ着いたので、二位の尼を偲んで建てられたものだという。そして、有之浦は別名「尼の洲」とも呼ばれているそうだ。

大鳥居

さらに、そこから2~3分ほど歩くと有名な大鳥居が見えてくる。

大鳥居
宮島 大鳥居 高さ約16.6m、棟の長さ24.2m、総重量は約60tだそうだ。

この大鳥居は、一見海底深く柱を打ち込んで固定してあるかのように見えるが、実はほぼ置かれてあるだけらしい。

屋根のように見える部分(笠木と島木)は箱状で、中に約5tもの石が詰めてあり、総重量で約60tにもなる大鳥居は、自重で立っているだけだそうだ。

もちろん、砂地だと沈んだり傾いたりするので、海底には松の木の杭がたくさん打ち込まれ、その上に石を載せてしっかりとした基礎は作ってあるらしい。

現在の大鳥居は8代目で、明治時代に再建された物らしいが、構造自体は数百年前と変わっていないそうだ。昔の人の知恵と技術は素晴らしいものだと思い知らされる。

大鳥居 月の印space.jpg大鳥居 太陽の印
笠木には、陰陽道の影響で、東側に太陽の印(写真右側)、西側には月の印(写真左側)がある。

鳥居 扁額space.jpg鳥居扁額
鳥居の扁額には、神社側に「伊都岐島神社」(写真左側)、沖側に「嚴島神社」(写真右側)の文字が書かれている。

厳島神社

大鳥居が見える場所から2分ほどで厳島神社の入り口に到着。

厳島神社
厳島神社 満潮時は海に浮かんだように見える。潮が引いたときはまた違った感じに見える。宮島に行く際は、満潮干潮の時間を調べておくとよい。

厳島神社解説
厳島神社解説

社伝によると、推古天皇元年(593年)、この地方の有力豪族 佐伯鞍職(さえきのくらもと)が社殿を築いたのが始まりという。
その後、仁安3年(1168年)頃、当時の太政大臣 平清盛公が寝殿造りの様式を取り入れて造営したものが現在の社殿の礎になっているそうだ。

厳島神社 枡形(ますがた)
寝殿造りの様式で、長い廻廊があるのが特徴。長さは約260mあるそうだ。写真は枡形(ますがた)といって、管弦祭に、御座船などが船を回すところ。

寝殿造りの様式で長い廻廊があるのだが、廻廊の床板は釘を使わず、板と板の間に隙間が空けてあり、高潮などの際に波のエネルギーを逃がす構造になっているそうだ。

昔の人の知恵ってほんとにすごいよね。

厳島神社 廻廊(出口付近)
厳島神社 廻廊 板と板の間に隙間が空けてある。床板は二重になっていて、見えているのは養生板。観光客が上がっても、本来の床板が傷つかないようにしてある。






プロフィール

しんどいわ太郎

Author:しんどいわ太郎
いつの間にか、1年遅れになっちゃった・・・
別のブログを立ち上げる予定ですが、ここには季節ネタをちょくちょくあげて残しておくつもりです。
新しいブログにデータを移すのはめんどくさいからね・・・

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