備中松山城と備中国分寺④
大松山城跡 (天神の丸) ④
大松山城跡を出発し、さらに山道を登っていく。

天神の丸への道
道は険しいが、ある程度整備されいて歩きやすい。でもここに来るまでに既にへとへとだ・・・
道は険しいが、ある程度整備されいて歩きやすい。でもここに来るまでに既にへとへとだ・・・
道は険しいものの、ある程度整備されているし、途中に大きな木もあったりして、ちょっとしたハイキング気分を味わえそうなところだ。

天神の丸と大松山城 本丸跡の間にある推定樹齢350年というアベマキ
アベマキはコルクの原料にもなるそうだ。
アベマキはコルクの原料にもなるそうだ。
200mほど歩いた頃、天神の丸跡(てんじんのまるあと)に到着。天神の丸は、備中松山城のある臥牛山の最高峰で、標高は480m。
ここにもかつて、城が築かれていて、今歩いて来た道が本丸と出丸の間の堀切だったそうだ。
ここにもかつて、城が築かれていて、今歩いて来た道が本丸と出丸の間の堀切だったそうだ。

天神の丸跡 解説板
ここにもお城が築かれていたそうだ。毛利と三村氏の戦った備中兵乱では、ここで激戦が繰り広げられ、最初に陥落したのがここ天神の丸といわれている。
ここにもお城が築かれていたそうだ。毛利と三村氏の戦った備中兵乱では、ここで激戦が繰り広げられ、最初に陥落したのがここ天神の丸といわれている。
1575年の備中兵乱の時は、ここでも激しい戦闘が行われたが、内応により最初に陥落したのがここ天神の丸といわれている。

天神の丸跡 堀切
堀切とは敵の侵入を阻むために造られた溝。「岐阜県日本百名城をめぐる」というページの城址の用語解説を見ると分かりやすい。ただの山道だと思っていたら、堀切だったとは・・・
堀切とは敵の侵入を阻むために造られた溝。「岐阜県日本百名城をめぐる」というページの城址の用語解説を見ると分かりやすい。ただの山道だと思っていたら、堀切だったとは・・・
ここも城だった頃の痕跡はほとんど残っていない。
ただ、本丸跡には備中兵乱の後、天神社といわれる神社が建てられ、江戸時代には歴代城主の信仰を受けていたということで、静まり返った山の中には手水鉢と神社跡が残されていた。
ただ、本丸跡には備中兵乱の後、天神社といわれる神社が建てられ、江戸時代には歴代城主の信仰を受けていたということで、静まり返った山の中には手水鉢と神社跡が残されていた。



左/天神社跡近くに残された手水鉢 右/天神社跡
江戸時代には、歴代城主の信仰を受けていたそうだ。
江戸時代には、歴代城主の信仰を受けていたそうだ。
大松山城跡 (相畑城戸跡) ④
案内板によると、天神の丸跡から備中松山城の天守閣までは480m。あと少しで到着だ・・・
天神の丸跡を出発し、しばらく歩いていると相畑城戸跡(あいはたきのとあと)という看板を見つけた。この付近は、備中兵乱の時の古戦場で、石積みや土塁などが見られるそうだ。

相畑城戸跡
備中兵乱の時はここも戦場となった。どこかに土塁も築かれているそうなのだが、どれが土塁なのかよく分からなかった。
備中兵乱の時はここも戦場となった。どこかに土塁も築かれているそうなのだが、どれが土塁なのかよく分からなかった。
土塁がどれなのかよく見てみたかったのだが、大きなスズメバチに追っかけられて退散。とても残念・・・

相畑城戸跡石積み
石積みというのはこれのことかな?みんな命がかかっているから必死になって積んだんだろうなぁ。
石積みというのはこれのことかな?みんな命がかかっているから必死になって積んだんだろうなぁ。
スズメバチから逃げ切り、一脚を杖代わりにしてトボトボと歩いていると少し開けた所に番所跡と書かれた標識と橋が見えてきた。

土橋と番所跡
手前の橋が土橋 奥の開けた所が番所跡。土橋は備中松山城の後方の堀切に渡された橋。戦になると城の防備のために落とされたといわれている。
手前の橋が土橋 奥の開けた所が番所跡。土橋は備中松山城の後方の堀切に渡された橋。戦になると城の防備のために落とされたといわれている。
この橋は土橋(どばし)という橋で、北側からの敵の侵入を阻むために造られた堀切に渡された橋である。
これを渡って、坂道を登っていけば天守閣はすぐのはず。
これを渡って、坂道を登っていけば天守閣はすぐのはず。

土橋と最後の上り坂
ここを登れば天守閣はすぐのはず。長かった・・
ここを登れば天守閣はすぐのはず。長かった・・
やっと着いたよ・・・・・
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