三原の海霧と尾道の町 ②
尾道の町 ① ~寺の町~
海霧を見られなかった代わりに、筆影山の紅葉を見ようと展望台付近をさまよってみたのだが、色づいている木は3割ほど。
少し紅葉には早かったようだ。

筆影山展望台付近
筆影山は紅葉の名所でもある。
でも、まだ紅葉はあまりすすんでいなかった。
筆影山は紅葉の名所でもある。
でも、まだ紅葉はあまりすすんでいなかった。

展望台付近の紅葉
色づいている木を探して、なんとか写真に収めるが、なんとなく不完全燃焼といった感じ・・・
色づいている木を探して、なんとか写真に収めるが、なんとなく不完全燃焼といった感じ・・・
朝早く出てきたのに、海霧も紅葉も見られず、このまま帰るのはあまりにも惜しい・・・
というわけで、三原からすぐ近くにある尾道の町に行くことにした。
尾道は、映画のロケ地やアニメの舞台に選ばれて全国的に知られるようになったが、最近、猫の街としても有名になりつつあり、いつか行ってみたいと思っていたのだ。
というわけで、三原からすぐ近くにある尾道の町に行くことにした。
尾道は、映画のロケ地やアニメの舞台に選ばれて全国的に知られるようになったが、最近、猫の街としても有名になりつつあり、いつか行ってみたいと思っていたのだ。

尾道の町
尾道は中世の頃から港町として発展し、江戸時代には北前船も寄港するようになって、年貢米や石見銀山からの銀の積み出し港にもなった。
特に、明治時代に山陽本線が開通してからは陸運と海運との接点となり、福山の鞆の浦を凌ぐ港町になった。
尾道は中世の頃から港町として発展し、江戸時代には北前船も寄港するようになって、年貢米や石見銀山からの銀の積み出し港にもなった。
特に、明治時代に山陽本線が開通してからは陸運と海運との接点となり、福山の鞆の浦を凌ぐ港町になった。
三原から尾道へは15キロ。車を商店街の外れに停めて歩き出すと、昭和レトロな町並みが広がっている。

尾道の町並み
港町として発展した尾道だが、「山の尾の道」から地名が来ているといわれているとおり、平地が非常に少なく、開発の余地があまりなかったために、昭和になると福山の町(鞆の浦ではない)に主役の座を奪われることになる。
そして、発展の波から取り残された町はどこか懐かしい風景となって、映画のロケ地としても選ばれるようになったのだ。
港町として発展した尾道だが、「山の尾の道」から地名が来ているといわれているとおり、平地が非常に少なく、開発の余地があまりなかったために、昭和になると福山の町(鞆の浦ではない)に主役の座を奪われることになる。
そして、発展の波から取り残された町はどこか懐かしい風景となって、映画のロケ地としても選ばれるようになったのだ。
今では珍しくなった「純喫茶」の看板に心を惹かれながらも、尾道観光の中心地、千光寺を目指して、ぶらぶらと歩き始める。
尾道は寺の町といわれるほど寺が多いので、お寺を少しだけ見させてもらいながらの散策である。
尾道は寺の町といわれるほど寺が多いので、お寺を少しだけ見させてもらいながらの散策である。

常称寺本堂
線路わきに見えた常称寺。常称寺は鎌倉時代後期の正応年間(1288~1293)に建てられた古刹で、本堂や観音堂、大門などが県の重要文化財に指定されているそうだ。
線路わきに見えた常称寺。常称寺は鎌倉時代後期の正応年間(1288~1293)に建てられた古刹で、本堂や観音堂、大門などが県の重要文化財に指定されているそうだ。
千光寺に登るためのロープウェイの乗り場もあるのだが、歩く方が好きなので、ロープウェイには乗らずに歩いて登る。

ロープウェイ乗り場
歩いて登っても大した距離ではない。でも、ロープウェイからの景色はなかなかいいらしい。
歩いて登っても大した距離ではない。でも、ロープウェイからの景色はなかなかいいらしい。
すると、ロープウェイ乗り場から150mほど歩いたところに、1367年に創建されたという天寧寺の案内板があったので、見学させてもらうことにした。

天寧寺案内板
天寧寺の案内板。矢印の先は、行けるのか、行き止まりなのか、入っていいのか、悪いのか、よく分からない道が続いている。
天寧寺の案内板。矢印の先は、行けるのか、行き止まりなのか、入っていいのか、悪いのか、よく分からない道が続いている。
ちなみに、入り口へと続く道はこんな感じ。まるで、迷路みたいだ。

天寧寺に入る小道
これが、思索の道?まるで迷路のようだ。こうした小道が沢山あるのが、尾道の魅力でもある。
これが、思索の道?まるで迷路のようだ。こうした小道が沢山あるのが、尾道の魅力でもある。
お寺の案内板によると、天寧寺は貞治6年(1367年)に創建された曹洞宗の古刹らしく、立派な山門もあった。
さっきの道は、裏道だったようだ。
さっきの道は、裏道だったようだ。



左/天寧寺 山門 右/天寧寺 解説板
創建当初は、東西3町(約330m)にも及ぶ大寺院だったそうだ。
創建当初は、東西3町(約330m)にも及ぶ大寺院だったそうだ。
山門は結構立派だが、山門の前の道は、やっぱり尾道らしい道だったりして・・・・・

天寧寺 山門前の道
山門前の階段を降りたところは、山陽本線の線路と国道があり、その先は細い道と家の建ち並ぶ町が広がっている。
山門前の階段を降りたところは、山陽本線の線路と国道があり、その先は細い道と家の建ち並ぶ町が広がっている。
お寺の中には、案内板に書いてあった五百羅漢を納めた羅漢堂が建っていた。

天寧寺 羅漢堂
五百羅漢を納めた羅漢堂。なかなか立派な建物だ。
五百羅漢を納めた羅漢堂。なかなか立派な建物だ。
五百羅漢は江戸時代末期ごろから明治時代にかけて、お寺に寄進されたものだそうだ。
港町として栄えた尾道は、交易で財を成した商人たちがお寺に沢山のお金を出したので、神社仏閣の沢山残るお寺の町になったそうだが、この立派な五百羅漢にもそんな歴史の一端を垣間見ることができる気がする。
港町として栄えた尾道は、交易で財を成した商人たちがお寺に沢山のお金を出したので、神社仏閣の沢山残るお寺の町になったそうだが、この立派な五百羅漢にもそんな歴史の一端を垣間見ることができる気がする。

天寧寺 五百羅漢
手彫りで、美しい彩色も施された立派な木像だ。お金持ちが沢山いた尾道だからこそこれだけの数の羅漢像が寄進されたのだろう。
手彫りで、美しい彩色も施された立派な木像だ。お金持ちが沢山いた尾道だからこそこれだけの数の羅漢像が寄進されたのだろう。
同じく、お寺の案内板に書いてあった三重の塔だが、お寺の境内ではなく、お寺を出て200mほど坂道を登ったところに建っている。

天寧寺 三重の塔と三重の塔へ続く道
先ほどの裏道(思索の道)から出て、千光寺へと続く道を200mほど登ったところに三重の塔は建っている。今、家が建ち並んでいるところもかつてはお寺の敷地だったのかもしれない。
先ほどの裏道(思索の道)から出て、千光寺へと続く道を200mほど登ったところに三重の塔は建っている。今、家が建ち並んでいるところもかつてはお寺の敷地だったのかもしれない。
お寺の案内板によると、この三重の塔は嘉慶2年(1388年)に建てられたが、風雪のために上層部を損じたため、元禄5年(1692年)に三重の塔にしたものだそうだ。

天寧寺 三重
もともと五重の塔だったのを、上の方が壊れたから三重の塔にするっていうのもなかなかすごいね。自分だったら、もとの五重の塔に直すことしか考えないと思う。
もともと五重の塔だったのを、上の方が壊れたから三重の塔にするっていうのもなかなかすごいね。自分だったら、もとの五重の塔に直すことしか考えないと思う。
この三重の塔の見える風景は、尾道を象徴する風景としてテレビなどで使われることが多く、平山郁夫画伯のスケッチポイントにもなっているようだ。



左/天寧寺 三重の塔と尾道の町 右/平山郁夫画伯スケッチポイントの碑
尾道を代表する風景としてよくテレビ等でも使用される。
尾道を代表する風景としてよくテレビ等でも使用される。
尾道に来たら、ここで記念撮影をするのもいいかもね。
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