音戸のツツジと御手洗の町 ③
御手洗の町 ②
住吉神社でお詣りを済ませて、御手洗の町に入って行く。
路地の間から見える海を眺めながら数分歩くと、満舟寺というお寺に到着。
路地の間から見える海
海のすぐそばに街が広がっているので、路地の間からは海を見ることができる。
なぜか懐かしさを覚える風景だ。
海のすぐそばに街が広がっているので、路地の間からは海を見ることができる。
なぜか懐かしさを覚える風景だ。
満舟寺は、高い石垣が特徴のお寺で、お寺の案内板によると、1751年(寛延4年)に真言宗古儀派のお寺として藩の認可を受けたそうだ。
満舟寺 案内板
満舟寺のあった場所は、①もともと海に面していたこと、②高い石垣が築かれていること、③もともと御手洗に水軍の拠点があったことから、なんらかの水軍拠点だったと考えられているらしい。
一説によると、この石垣は四国攻めの際、加藤清正が築いたものだといわれている。
ここには、栗田樗堂のお墓もある。潮待ち、風待ちの港として栄えた御手洗の町は、多くの文人を招いたが、小林一茶とも親交があったという俳諧師 栗田樗堂も晩年を御手洗の町で過ごした。
満舟寺のあった場所は、①もともと海に面していたこと、②高い石垣が築かれていること、③もともと御手洗に水軍の拠点があったことから、なんらかの水軍拠点だったと考えられているらしい。
一説によると、この石垣は四国攻めの際、加藤清正が築いたものだといわれている。
ここには、栗田樗堂のお墓もある。潮待ち、風待ちの港として栄えた御手洗の町は、多くの文人を招いたが、小林一茶とも親交があったという俳諧師 栗田樗堂も晩年を御手洗の町で過ごした。
ここには、俳諧師 栗田樗堂のお墓や琉球使節の書いた寺額の飾られた観音堂があり、港として栄えた頃の御手洗に、多くの文化人や使節団が訪れたことを窺い知ることができる。
左/満舟寺の高い石垣 右/琉球使節の書いた寺額のかかった観音堂
石垣を見る限り、ちょっとした砦のようだ。加藤清正が築いたものかどうかは分からないが、水軍施設だったといわれるとそんな感じに見えてくる。
石垣を見る限り、ちょっとした砦のようだ。加藤清正が築いたものかどうかは分からないが、水軍施設だったといわれるとそんな感じに見えてくる。
前回来た時は触れなかったのだが、境内には亀趺墓という亀の台座に載せられたお墓がある。亀趺墓は、大名家のお墓に使われている例はあるものの、庶民のお墓に使われているのは、全国的にも珍しいものらしい。
どういう経緯で作られたのかは分からないけど、やっぱりお金と力を持っている人が多く住んでたからこそ作られたんじゃないかな。
左/亀趺墓 右/三次の鳳源寺にあった神道碑
右の写真は三次の鳳源寺にあった神道碑。
亀趺は、もともと功徳や功績を称えた石碑をのせるための台座だったもの。亀といっても池で泳いでる亀ではなく、龍の9匹の子供の一人で神獣である。贔屓という名前で、贔屓の引き倒しの語源にもなったらしい。
左の写真がその亀趺墓だが、神獣っていうか、なんとなくガメラっぽい・・・
右の写真は三次の鳳源寺にあった神道碑。
亀趺は、もともと功徳や功績を称えた石碑をのせるための台座だったもの。亀といっても池で泳いでる亀ではなく、龍の9匹の子供の一人で神獣である。贔屓という名前で、贔屓の引き倒しの語源にもなったらしい。
左の写真がその亀趺墓だが、神獣っていうか、なんとなくガメラっぽい・・・
ところで、この満舟寺には、アニメにも登場した足の長い小学生の標識がある。
足の長い小学生の標識
アニメ「たまゆら」にも出ていた足の長い小学生の標識。
誰が作ったのかは知らないが、なかなかのナイスセンスだ。
来るたびに、置いてある場所が変わっているのは謎である・・・
アニメ「たまゆら」にも出ていた足の長い小学生の標識。
誰が作ったのかは知らないが、なかなかのナイスセンスだ。
来るたびに、置いてある場所が変わっているのは謎である・・・
いろんな文化財の眠る満舟寺だけど、これも文化財の一つといっていいのかな?
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