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奥出雲おろちループと月山富田城・出雲大社 ③

出雲坂根駅 ②


出雲坂根駅では、延命水という湧水が名物になっている。
駅前の看板
出雲坂根駅前の延命水の看板
駅構内、駅前には延命水の水汲み場がある。
出雲坂根駅に泉源があるようだ。

駅の構内に水汲み場があり、そこに延命水のいわれが書いてあった。

それによると、寿命が100年を超えたと思われる古狸が好んで飲用していることから、地元の人も長寿の霊水として飲み始め、そのうち延命水と名付けられたのだそうだ。

出雲坂根駅 延命水の水汲み場space.jpg延命水のいわれと延命神社
左/出雲坂根駅にある延命水の水汲み場  右/延命水の案内板と延命神社
冷たくてなかなかおいしい。木次線に乗って旅をする人には一服するのにいいかも。
寿命が延びた感じはあんまりしなかったけど・・・

出雲坂根駅前の川space.jpg川の側の水汲み場
左/出雲坂根駅前の水汲み場  右/駅前を流れる川の傍にある水汲み場
道路側の壁からパイプが何本か出ており、水が湧き出している。
飲んでも大丈夫かなという気がしないでもなかったのだが、川の水もきれいだし、きっと大丈夫なんだろう。

少し飲んでみたのだが、冷たくておいしい。夏場にここを訪れたら飲んでみるといいかも。

ただ、寿命が延びた気はあんまりしなかったけどね・・・

月山 富田城 ①


本当は、木次線を眺めて一日過ごす予定だったのだが、空腹と雨降りのおかげで気が変わってしまった。

地図を見ながらどこに行くか悩んだのだが、月山富田城(がっさんとだじょう)に行くことにした。

月山富田城は、戦国時代初期に山陰、山陽二道に覇を唱えた尼子(あまご)氏の居城だった城であり、一度行ってみたかったのだ。

道の駅 酒蔵奥出雲交流館
途中にあった道の駅 酒蔵奥出雲交流館
月山富田城のある安来へは、国道314号を約20km走って国道432号線に入り、国道432号を約30km走ることになる。山道だけど、結構広い道で走りやすい。
お腹が空いていたので、どこかで食べようと思ったのだが、名物の蕎麦屋さんは朝早くに開いているはずもなく、道の駅で何か食べようと思っていたのに、土産物のお酒やお菓子・乾物などしか売っていなかった。

月山富田城のある広瀬までは、出雲坂根駅から54Km。途中、食べ物を求めて道の駅に寄り道をしたりしながら、80分後の8時52分に広瀬に到着。

結局、食事をするところは見つからなかったけど・・・・

月山富田城 案内板
月山富田城 案内板
道の駅 広瀬富田城にあった案内板。
毛利氏が台頭してくるまで、山陰・山陽に覇を唱えた尼子氏の本拠地だったのがこの月山富田城だ。
1934年(昭和9年)1月22日、国の史跡に指定されている。

月山富田城は、大阪城のようにエレベーターで上がれるような城ではない。標高189mの月山の地形を巧みに利用して作られた天嶮の要害であり、ちょっとした山登りである。

雨が降る中、空腹を抱えたまま歩くのはしんどいけど、仕方がない・・・・

少し歩くと、道の駅に併設された歴史資料館の傍に、月山富田城のジオラマ模型と、歴史年表があった。

月山富田城 図space.jpg月山富田城 ジオラマ模型
左/月山富田城 案内図  右/月山富田城ジオラマ模型
月山富田城は東西に約1200m、南北に約1200mの範囲に縄張りされた総面積140万㎡の日本でも最大級の規模を持つ城らしい。城には「菅谷口、御子守口、塩谷口」の3つの入り口があるが、すべての道が山中御殿という最終防衛ラインに繋がっている。

月山富田城の歴史
月山富田城の歴史 解説板
ちょっと色あせて読みにくいのだが、月山富田城の歴史が書いてある。簡単にまとめてみると、①出雲守護代だった尼子氏の時代、②尼子を滅ぼした毛利・吉川の時代、③関ケ原合戦後の堀尾氏の時代に分けられる。

上の歴史年表に少し書いてあるのですが、尼子三代の歴史が分からないと月山富田城のことがよく分からないので、ここに少しだけまとめてみます。

①尼子経久(あまごつねひさ)の時代(尼子氏最盛期)(1478年頃~1537年)
文明10年(1478年)頃、出雲守護代の地位を譲られたという経久は、一時守護代の地位を追われながらも、その後守護代の地位に返り咲き、16世紀の初めごろには出雲国内の統一を完了。

因幡・伯耆(鳥取県)、備後・安芸・備中(広島・岡山県)方面に進出し、大内義興(九州北部、山口・広島・島根西部などに勢力を持っていた大名)が上京して不在の虚をついて急速に勢力を拡大した。

②尼子晴久の時代(安芸郡山城の戦いと第1次月山富田城の戦い、新宮党事件)(1537年~1560年)
<安芸郡山城の戦い(1540年(天文9年)~1541年(天文10年))(尼子30,000 vs 毛利2,400+大内援軍10,000)>
尼子経久から家督を譲られた尼子晴久は、尼子氏から離反して大内氏側についた毛利元就を討つため、元就の本拠地である安芸郡山城を攻めたが、敗北。尼子氏の勢力は大きく削がれることになった。

<第1次月山富田城の戦い(1542年(天文11年)~1543年(天文12年)5月)(大内氏45,000 vs 尼子氏15,000)>
逆に、大内・毛利氏に本拠地である月山富田城にまで攻め込まれたが、これを撃退、勢力を回復した。
第1次月山富田城の戦い
第一次月山富田城の戦い
本に書いてある綺麗な図は著作権上使えないので、案内板の写真を適当に加工してみました。汚くて申し訳ないけど、雰囲気が分かればいいよね。
大内義隆は富田城を眼下に見下ろす京羅木山に本陣を設け、毛利元就、陶隆房らは菅谷口に進撃。戦線が膠着する中、尼子から寝返って大内氏についていた三沢為清、三刀屋久扶らが尼子に寝返って、月山富田城内に入ってしまった。
これにより、三沢、三刀屋らの本拠地の兵も尼子方となり、背後を脅かされる形になった大内氏は撤退を開始。大内義隆の養嗣子 大内晴持は中海で溺死、毛利元就も命からがら逃げ帰ったという。

<新宮党事件>
天文23年(1554年)11月1日、晴久は叔父にあたる尼子国久を暗殺。居館のあった新宮谷を急襲して息子の誠久(さねひさ)をはじめとする一族を殺害または自害に追い込んだ。国久らは、新宮党と呼ばれる精鋭部隊を率いており、この事件によって戦力低下を招いたことから、毛利の計略によって起きた事件ともいわれている。
 
③尼子義久の時代(第二次月山富田城の戦い)(1560年~1566年)
尼子晴久が47歳の若さで急死し、20歳の若さで家督を継いだ。しかし、配下の国人衆をまとめることは難しく、毛利氏との和議の失策(雲芸和議)もあって、尼子の勢力は急速に衰えることになった。

<第二次月山富田城の戦い(永禄7年(1564年)~永禄9年(1566年)11月)(毛利氏30,000 vs 尼子 10,000)>
永禄5年(1562年)から毛利元就は出雲侵攻を開始。永禄7年(1564年)には、富田城を包囲した。
山中幸盛(鹿介)らの活躍により、苦戦を強いられた毛利軍は徹底的な兵糧攻めに転換。城内の兵も良く持ちこたえたが、水や食料の窮乏した城内は悲惨な状態となり、永禄9年(1566年)11月に降服・開城。
ここに尼子氏は滅亡し、尼子義久、倫久(ともひさ)、秀久の三兄弟は捕えられ、安芸長田(広島県安芸高田市)の円明寺に幽閉されることとなった。
第二次月山富田城の戦い
第二次月山富田城の戦い
菅谷口、御子守口、塩谷口の3方向から総攻撃を仕掛けてきた毛利軍を尼子勢は撃退。毛利軍はいったん引き上げた。その後、再び城を包囲した毛利軍は徹底的な兵糧攻めに転換。
食料のなくなった城内はかなり悲惨な状態になったらしく、城内では内紛、逃亡者も相次ぎ、永禄9年11月に降伏・開城した際には、当初1万いた城兵は、わずか300になっていたという。

なんか、まとめが長くなって、お城に登るところまで書けなかった。

二度の大きな戦いが繰り広げられたお城がどんな所か、忘れないうちにまとめたいんだけどねぇ・・・



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プロフィール

しんどいわ太郎

Author:しんどいわ太郎
いつの間にか、1年遅れになっちゃった・・・
別のブログを立ち上げる予定ですが、ここには季節ネタをちょくちょくあげて残しておくつもりです。
新しいブログにデータを移すのはめんどくさいからね・・・

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