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奥出雲おろちループと月山富田城・出雲大社 ⑦

月山富田城 ⑧(山中御殿)


へこんでいても仕方がないので、ゆっくりと山中御殿を散策してみる。

山中御殿
山中御殿
山の中とは思えないほど広大な敷地が造られている。ここにどんな建物が建っていたのだろうか。

月山富田城は、尼子氏が滅んだ後、毛利・吉川が支配し、関ヶ原の合戦後、毛利氏が萩に転封になってからは堀尾忠氏(ほりおただうじ)が城主となった。

堀尾忠氏は、父親の吉晴とともに月山富田城を近世城郭に作り変えているのだが、この山中御殿にも、堀尾氏の時代に壮大な居館が建設されたらしい。

山中御殿
山中御殿
手前の石垣から奥の重機や車のある所までが山中御殿。
松江城建築の際には、解体した富田城の木材も利用されたらしい。ひどいや・・・・

しかし、①城が内陸にあり、交通が不便だったこと、②城下町を整備するのに、土地が狭かったことから、1611年(慶長16年)に松江城を完成させて、移転。月山富田城は、1615年(元和元年)の一国一城令により、破城となっている。

せめて正確な図面とか絵図が残っていれば良かったのに、とても残念。

山中御殿 案内板
山中御殿 案内板
独特な形をした塩谷口の門跡などが見どころらしい。
石垣の造りなどから、堀尾氏の時代の物と推測されているようだ。毛利と尼子が戦っていた頃のお城ってどんなだったのかな?

それでも、山中御殿の案内板によると、山中御殿平には、独特な形をした塩谷口の門跡、菅谷口の門跡、山頂のお城へと続く七曲りと呼ばれる軍用道などが残り、往時の面影を残しているという。

立ち入り禁止だったから、どれも見られなかったけどね・・・・

雑用井戸space.jpg雑用井戸
雑用井戸
菅谷口付近に残る雑用井戸。雑用ってなんだろう?洗濯とかに使ったのかな?

菅谷口の門space.jpg菅谷口の石垣
左/菅谷口の門跡   右/菅谷口の石垣
左は菅谷口に残る門跡。石垣の所には櫓も建てられていたようだ。 右は石垣を外側から見た所。

七曲り 入り口space.jpg七曲り
左/七曲り入り口   右/七曲り
左は七曲りの入り口。右は七曲り。本当ならここから山頂のお城へ行けるはずだった。無念・・・


結局見られたのは、雑用井戸と七曲りの入り口、菅谷口の門跡のみ。せめて山頂の本丸跡だけでも見たかったな・・・

塩谷興久の墓と飯梨川の流れ


車を停めていた道の駅に戻り、道の駅のすぐ傍にある塩谷興久(えんやおきひさ)の墓を見に行った。

塩谷興久の墓
塩谷興久の墓
所領に対する不満から反乱を起こしたともいわれている。
この反乱は大規模なものとなり、尼子家中を二分する争いとなったようだ。4年も続いたこの乱によって、尼子の勢力は大きく減衰することとなってしまった。
月山富田城の麓にひっそりと建てられた墓だが、苔むした宝篋印塔の笠の部分が落下していたりとか、結構扱いがひどい。お願いだから直してあげて。

塩谷興久は、尼子経久の三男だが、1530年(享禄3年)に反乱を起こした人物である。

最後は、妻の実家である備後甲山城の山内直通を頼ったが、4年後の1534年(天文3年)に自害に追い込まれた。

山陰の覇者と呼ばれた尼子経久だが、長男の政久は早くに戦死、二男の国久は新宮党事件で粛清され、三男の興久はこうして反乱を起こして亡くなっている。

こうした一族の団結力のなさが、毛利との差だったのかもしれない。

月山富田城や尼子氏のことがもっと知りたかったので、道の駅の傍にある安来市立歴史資料館に入ってみたのだが、そこに富田川河床遺跡(とだがわかしょういせき)の事が書いてあった。

安来市立歴史資料館
安来市立歴史資料館
ワンフロアーだけの展示で、情報量はあまり多くはない。あまり期待するとがっかりするかも。
でも、安来の地名は、スサノオノミコトがこの地に来て「私の心は安らかになった」といったことに由来するとか、富田川河床遺跡のことも書いてあったので、少し勉強になった

それによると、富田川(現在の飯梨川)は、たびたび氾濫を起こしたが、1666年(寛文6年)に起きた大洪水のために、城下町は壊滅的な被害を受けたらしい。

しかも洪水は、川の流れそのものを変えてしまい、かつての城下町は富田川の下に沈んだために、今の町(広瀬町)がある場所に町を移転したのだそうだ。


飯梨川(かつての富田川)の流れ
飯梨川の流れ
この川が流れているところは、昔は城下町だったらしく、河床からは、昔の住居跡や井戸、生活用具などが多数出土したそうだ。

歴史資料館を出た後、河原の方に行ってみたが、そこにも遺跡のことが書かれた案内板が置かれていた。
富田川河床遺跡の案内板
富田川河床遺跡の案内板
城下町が川底に沈んだため、初代広瀬藩主 松平近栄(ちかよし)が新たな町づくりの許可を幕府からもらっている(広瀬藩は松江藩の分藩)。
花崗岩の多い中国地方は、もともと砂が川に流入しやすいうえに、たたら製鉄の鉄穴流し(かんなながし)によってたくさんの土砂が上流から流れて堆積していったのも洪水が多かった理由らしい。

月山富田城というと、尼子と毛利の戦いのことばかり頭に浮かぶけど、いろいろと大変な歴史があるもんだね。



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奥出雲おろちループと月山富田城・出雲大社 ⑥

月山富田城 ⑥(花の壇から山中御殿へ)


花の壇から山中御殿へ行くには、いったん花の壇から急な下り坂を降り、細い道を歩いて行かねばならない。

雨が降って滑りやすいし、結構しんどいけど、お城だからしょうがないよね・・・

花の壇を降りる道space.jpg花の壇から山中御殿へ続く道
左/花の壇から降りる道    右/花の壇から山中御殿へと続く道
花の壇から降りる道もかなり急な坂道で、しかもつづら折りになっている。下手すると、下まで滑り落ちそうだ。

花の壇と山中御殿の間には、深い堀切が造られているのだが、その手前に昔の通路跡が保存されていた。

花の壇と山中御殿の間の堀切
花の壇と山中御殿の間の堀切
かなり深い堀切。両側から弓矢や鉄砲で攻撃されるとひとたまりもないだろう。

通路跡space.jpg通路跡の地層
左/通路跡  右/通路跡の地層の断面
通路が雨などで崩れないよう、2mにわたって、真砂土と粘土を14層に固めて頑丈にしてあるらしい。これを版築と呼ぶそうだ。

一見、何でもない通路だが、雨で崩れないように真砂土と粘土を14層に固めて頑丈にしてあるらしい。城全体がこんな感じで手間をかけて造られているのかな?

すごいとは思うんだけど、作業に駆り出された農民達はたまったもんじゃないよね・・・・

月山富田城 ⑦(山中御殿)


通路跡から50mほど歩くと、山中御殿の石垣が見えてくる。

山中御殿の石垣
山中御殿の石垣
かつて城主が住んだという山中御殿。城に通じる3つの通路(塩谷口、お子守口、菅谷口)はすべてこの山中御殿に繋がっており、文字通り、最後の砦となっている。
郭の周囲は5mほどの石垣で囲まれ、厳重に守られているが、ここを落とされても山の上に築いた城に籠って、守り抜くという二段構えの城になっている。

山中御殿の手前側(北側)にも2mほどの石垣が築かれていて、石垣の上はかなり広い平坦地となっており、何らかの建物が建っていたと思われる。

山中御殿前の石垣space.jpg石垣の上に登ったところ
山中御殿前の石垣
何らかの建物が建っていたのだろう。山中御殿の傍にあるし、役所的なものだったのかな?

山中御殿前の郭からの眺め
山中御殿前の郭からの眺望
端の方まで歩いて行くと、花の壇に再現された小屋と、堀切りが見える。城の防衛上も重要な場所だったのだろう。
遠くに見える山は京羅木山(きょうらぎさん)。第一次月山富田城の戦いの際に、大内義隆が本陣を置いた場所だ。

そして、ついに山中御殿平(さんちゅうごてんなり)に到着。

ここは、城主の居館のあった場所で、城へと続く三本の道(菅谷口、塩谷口、お子守口)がすべてここに繋がっているという、城の中核となる場所である。

ここと、山頂の城跡に上がるのが楽しみで、雨の中を朝ごはんも食べずに登ってきたようなものなのだが・・・

よく見ると、山中御殿の南半分が工事のために立ち入り禁止になっていた。しかも、あろうことか、山頂の本丸へと続く道、菅谷口へと続く道も立ち入り禁止になっているではないか。

工事中の山中御殿平space.jpg通行止めになっている本丸への道
左/工事中で、立ち入り禁止になっている山中御殿平(さんちゅうごてんなり)  右/通行止めになっている本丸への道と菅谷口へ続く道
山中御殿平の南半分が立ち入り禁止で、大手門の跡や、屋敷の跡などが見られない。それだけならまだしも、本丸へ続く道まで通行止め。なんてこったぁ。


ここまで来て、どういう仕打ちですか・・・・・



プロフィール

しんどいわ太郎

Author:しんどいわ太郎
いつの間にか、1年遅れになっちゃった・・・
別のブログを立ち上げる予定ですが、ここには季節ネタをちょくちょくあげて残しておくつもりです。
新しいブログにデータを移すのはめんどくさいからね・・・

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