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三次の彼岸花と安芸郡山城 ③

酉谷地点石垣跡


御里屋敷跡から坂道を登ること150m、がけ下に案内板が立っている。どうやら、ここも城の遺構だったようだ。
酉谷地点石垣案内板
酉谷地点石垣案内板
御里屋敷跡からすぐのところにある案内板。案内板も崖の上の方にある(写真左まんなか付近)。
ここから道路の方まで石垣が築かれていたのだろうか?
それにしても、こんな山の下の方まで城の遺構があるとは思わなかった。本当に全山にわたって城が築かれていたらしい。

崖を登るのは危険なので、案内板のところまでしかたどり着けなかったが、こんな山裾の方にまで郭が作られていたというのは驚きだ。

酉谷地点石垣案内板space.jpg酉谷地点石垣
左/酉谷地点石垣案内板   右/酉谷地点石垣
こんな山裾にまで郭があったというのは驚きだ。私の頭ではどんな城だったのか想像できない・・・・誰か、想像図でもいいから書いて欲しいなぁ。

毛利隆元公 墓所


そこからさらに50mほど登ると、毛利隆元公の墓所がある。他の一族の墓から一人離れたところに建てられているのだが、隆元の菩提寺であった常栄寺という寺がここにあったためらしい。

毛利隆元公 墓所入口space.jpg毛利隆元公墓所案内板
左/毛利隆元公墓所入口  右/毛利隆元公墓所 案内板
菩提寺跡にお墓を作ったようだ。別に、影の薄い人だったから爪はじきにされたわけではない。
しかし、毛利元就公や他の一族の墓所から一人だけ離れた所にあり、少し気の毒な気もする。


毛利隆元公 墓所
毛利隆元公墓所
毛利隆元は、毛利元就の嫡男で、毛利家の第14代当主。偉大な父親と優れた弟達に隠れた存在で、知名度は低いが、特に内政手腕には秀でていたようだ。
軍事面でも、大内義隆を殺害した陶隆房(晴賢)との戦いを元就に決意させ、陶隆房(晴賢)を厳島の戦い(1555年)で滅ぼして、毛利が大大名となる礎を築いている。
尼子晴久亡き後、勢力の衰えてきた尼子氏と決着をつけるため、九州の大友氏と和議を結び、元就等の遠征軍に合流すべく出雲へ向かっていた隆元だが、途中の高宮町佐々部で急死した(永禄6年 1563年)。41歳の若さであった。南天山城で、備後の国人領主 和智誠春の饗宴に招かれた直後に亡くなっており、食中毒とも毒殺ともいわれているが、真相は明らかでない。
遺体は、宿舎でもあった佐々部の蓮華寺で荼毘にふされ、そこには隆元の墓が残されている。ちなみに、このときの戦い(第二次月山富田城の戦い)で、毛利氏は尼子氏を滅ぼしている。

墓に木が植えられているのが気になって(洒落じゃないけど・・・)、いろいろ調べたんだけど、よく分からない。元就公の墓にも木が植えられているところをみると、毛利家で昔流行っていたのかもしれない。

薬研堀跡と青光井山尼子陣所跡(遠景)


毛利隆元公の墓所から、200mほど歩くと毛利元就公墓所前の鳥居にたどり着くのだが、その手前はちょっとした公園になっていて、そこには案内板がいくつか立っていた。
毛利元就公墓所入口の鳥居
毛利元就公墓所前の鳥居
この鳥居をくぐると、いよいよ郡山城内・・という感じがする。本当はずっと下の方までお城だったみたいだけどね。

山の方(北側)に立っていたのが、薬研堀跡の案内板。

薬研堀跡案内板space.jpg薬研堀跡
左/薬研堀跡案内板  右/薬研堀跡
薬研堀は、薬研(薬を調合する道具)のように断面がV字型の堀。薬研堀の発掘調査例では、国内で最も長いものらしい。

そして、町側(南側)に立っていたのが、青光井山尼子陣所跡の案内板。1540年に起こった、尼子氏と毛利氏の戦いの史跡だ。

青光井山尼子陣所跡案内板space.jpg青光井山尼子陣所跡(遠景)
左/青光井山尼子陣所跡案内板  右/青光井山尼子陣所跡(遠景)
吉田郡山城の戦い(1540年(天文9年)~1541年(天文10年))で、尼子詮久(晴久)が本陣を置いた青山(写真左側)と光井山(写真右側)(2つまとめて青光井山)。ここで、毛利軍2,400と尼子軍30,000が対峙した)


吉田郡山城の戦いは、以前にも書いたのだが、尼子氏から離反し、大内氏側についた毛利氏を討つために尼子詮久(晴久)が3万もの大軍を率いて攻めこんで来た戦いである。
吉田郡山城の戦い
吉田郡山城の戦い
案内板の写真を使わせてもらって、尼子と毛利の布陣を書き込んでみました。
①8月に富田城を出発して、9月4日に多治比川上流の風越山に本陣を置いた尼子軍は、9月23日に青光井山へと本陣を移す。②10月11日、多治比川を渡って、郡山城に侵攻した尼子軍は毛利軍に撃退される(青山土取場の戦い)。③12月23日陶隆房率いる大内氏援軍10,000人が到着。毛利軍も討って出て、激しい戦闘を繰り返す。④1月14日尼子軍撤退。
尼子軍は数において圧倒的に優勢だったにも関わらず、大内氏の援軍が来るまで本格的な戦闘はほとんど行われず、散発的な戦闘にとどまっている。本当に毛利氏を滅ぼすための戦いだったのか疑問視する向きもあるようだ。

今は、どう見ても普通の山間の小さな町だが、こんな所に日本屈指の大きな山城があり、何万もの兵が戦ったというのが本当に信じられない(今の町の人口は約1万人・・・)。

まぁ、そこが歴史の面白いところなんだけどね。


おまけ


時系列が分かりにくいので、ちょっとだけ整理してみました。

1523年(大永3年) 毛利元就 家督を相続。(相続時に尼子経久の介入があり、争いになる)(元就27歳)
1525年(大永5年) 毛利氏が尼子を離反し、大内氏傘下に入る(ただし、両者の間でバランスを保ち続ける)。
1537年(天文6年) 隆元を大内氏へ人質に出し、毛利氏の大内氏帰属の意思が明確になる。
1540年(天文9年) 吉田郡山城の戦い(元就44歳)
1542年(天文11年) 第一次月山富田城の戦い(尼子に敗れ、隆元ともども、命からがら逃げかえる)
1546年(天文15年) 毛利隆元が家督を相続する(元就50歳)
1555年(弘治元年) 厳島合戦に勝利。陶隆房(晴賢)自刃。(元就59歳)
1557年(弘治3年) 大内氏を滅ぼし、周防長門を平定。(元就61歳)
1563年(永禄6年) 敵対関係にあった大友氏と和睦成立。第二次月山富田城の戦い。遠征途中で隆元は病死。(元就67歳)
1566年(永禄9年) 尼子氏降伏。毛利氏中国平定(元就70歳)
1571年(元亀2年) 郡山城にて、元就死去(元就75歳)






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プロフィール

しんどいわ太郎

Author:しんどいわ太郎
いつの間にか、1年遅れになっちゃった・・・
別のブログを立ち上げる予定ですが、ここには季節ネタをちょくちょくあげて残しておくつもりです。
新しいブログにデータを移すのはめんどくさいからね・・・

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