三江線とイズモコバイモ ②
川本町(かわもとまち)
イズモコバイモを見るために降りた駅は石見川本駅。8時24分の定刻通りに到着だ。

石見川本駅
島根県邑智郡(おおちぐん)川本町(かわもとまちと読む。かわもとちょうではない。)にある駅。石見銀山の近くにある川本町は、江戸時代は天領となり、陸運と江の川の水運の町として栄えた町だ。毛利が石見銀山を支配するようになってからは、ここを通って銀を毛利方へと運んだらしい。
島根県邑智郡(おおちぐん)川本町(かわもとまちと読む。かわもとちょうではない。)にある駅。石見銀山の近くにある川本町は、江戸時代は天領となり、陸運と江の川の水運の町として栄えた町だ。毛利が石見銀山を支配するようになってからは、ここを通って銀を毛利方へと運んだらしい。
イズモコバイモの自生地は、江の川を渡り県道187号線を北の方へ向かった谷戸(たんど)地区にあるのは自宅で確認済みだったのだが、駅前に置いてある案内板でも再確認。
方向音痴のくせに地図を持って来るのを忘れたから、慎重に動かなくちゃ。
方向音痴のくせに地図を持って来るのを忘れたから、慎重に動かなくちゃ。

石見川本駅前にあった案内板
イズモコバイモだけでなく、ユキワリイチゲの自生地もあるようだ。見に行きたかったが、イズモコバイモの自生地とは逆方向なので徒歩では時間的に無理。また来る機会があるかな?
イズモコバイモだけでなく、ユキワリイチゲの自生地もあるようだ。見に行きたかったが、イズモコバイモの自生地とは逆方向なので徒歩では時間的に無理。また来る機会があるかな?
駅の南側にある川本大橋という橋を渡って、県道187号線方面へと道を間違えないようにゆっくりと歩いていく。
次に乗る電車は13時49分なので、時間的にはまだまだ余裕があるのだ。
次に乗る電車は13時49分なので、時間的にはまだまだ余裕があるのだ。

川本大橋から見た江の川
朝から濃い霧に覆われ、鉛色だった空がきれいに晴れてきた。少し重かった気分まですっきりと晴れてくるようだ。
ただ、三次で霧の海を見るには最適な天気だったと思う。三江線に乗るのをあきらめて、三次名物「霧の海」を見るのもありだったかな・・・
朝から濃い霧に覆われ、鉛色だった空がきれいに晴れてきた。少し重かった気分まですっきりと晴れてくるようだ。
ただ、三次で霧の海を見るには最適な天気だったと思う。三江線に乗るのをあきらめて、三次名物「霧の海」を見るのもありだったかな・・・
道中、道の脇には河津桜が綺麗に咲いていたり、岩が露出した山が見えたりで、存分に春の散歩を楽しむことができた。



左/綺麗に咲いた河津桜 右/大きな岩の露出した山
天気のいい日はのんびりと散歩をするに限るね。
天気のいい日はのんびりと散歩をするに限るね。
道の脇に石碑のようなのがあったので近くに寄ってみたのだが、谷戸経塚という経塚(きょうづか)で、川本町の指定有形文化財だと書いてあった。
そばに建っている案内板によると、江の川の洪水に苦しめられた村人が治水の願いを込めて建てたものだそうだ。
川本は江の川の水運で栄えた町だそうだけど、やっぱり昔から水害には悩まされていたんだね。

谷戸経塚
文政2年(1819年)に建てられたという石碑の下には2つの「はんど(水甕)」が埋められ、そこには法華経が1字ずつ書かれた小石が沢山入れられているそうだ。石碑時代に文化財的な価値があるのはもちろん、この「はんど」も石見焼の貴重なものらしい。
経塚は、音戸や宮島で平清盛が建てたものを見たけど、もともとは貴族が作っていたものが、後に庶民にも広まったのだそうだ。
文政2年(1819年)に建てられたという石碑の下には2つの「はんど(水甕)」が埋められ、そこには法華経が1字ずつ書かれた小石が沢山入れられているそうだ。石碑時代に文化財的な価値があるのはもちろん、この「はんど」も石見焼の貴重なものらしい。
経塚は、音戸や宮島で平清盛が建てたものを見たけど、もともとは貴族が作っていたものが、後に庶民にも広まったのだそうだ。
人も車もほとんど通らないのどかな町だけど、石見銀山に近いこの町は、銀山と中国地方の覇権をめぐって毛利氏と尼子氏の激戦が繰り広げられたこともあるらしい。
駅前にあった案内板によると、この辺りの領主で石見銀山を占領していたこともある石見小笠原氏が、毛利元就や小早川隆景の率いる軍勢に攻められ、敗れ去ったのだそうだ。
駅前にあった案内板によると、この辺りの領主で石見銀山を占領していたこともある石見小笠原氏が、毛利元就や小早川隆景の率いる軍勢に攻められ、敗れ去ったのだそうだ。

石見川本駅前の案内板
駅前の案内版には、この地を治めた石見の国人 小笠原氏のことが書いてあった。石見小笠原氏は尼子氏側につき、一時は石見銀山を占領したこともあったようだが、毛利氏の攻撃を受けて、居城 温湯城(ぬくゆじょう)にこもって激戦を繰り広げたという。
小笠原氏もよく戦ったものの、尼子の援軍を受けられなかったことで毛利氏に降服したそうだ。
川本町には、石見小笠原氏の造った赤城(せきじょう)、温湯城(ぬくゆじょう)、毛利に降服し、従属した後に造った丸山城の城址が残っている。
駅前の案内版には、この地を治めた石見の国人 小笠原氏のことが書いてあった。石見小笠原氏は尼子氏側につき、一時は石見銀山を占領したこともあったようだが、毛利氏の攻撃を受けて、居城 温湯城(ぬくゆじょう)にこもって激戦を繰り広げたという。
小笠原氏もよく戦ったものの、尼子の援軍を受けられなかったことで毛利氏に降服したそうだ。
川本町には、石見小笠原氏の造った赤城(せきじょう)、温湯城(ぬくゆじょう)、毛利に降服し、従属した後に造った丸山城の城址が残っている。
川本町なんて、正直言ってこの年になるまで聞いたこともなかったんだけど、石見銀山にも関係している歴史のある町だったようだ。
なんかこういうのを見ていると、石見銀山にも行きたくなってくるよね。
石見銀山や銀山街道の町を少しずつ回ってみようかな。
なんかこういうのを見ていると、石見銀山にも行きたくなってくるよね。
石見銀山や銀山街道の町を少しずつ回ってみようかな。
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