三次の桜とカタクリの花 ④
鳳源寺と手植えの桜
尾関山公園の北側に、浅野家の菩提寺である鳳源寺というお寺がある。
初代三次藩主 浅野長治公が、1633年(寛永10年)に建立したお寺だ。

鳳源寺
臨済宗妙心寺派のお寺で、慈眼常光禅師が開山したらしい。
臨済宗妙心寺派のお寺で、慈眼常光禅師が開山したらしい。
鳳源寺には、大石内蔵助良雄が手植えしたという枝垂れ桜があるということなので、見に行くことにした。
枝垂れ桜は、尾関山公園に近い方の出入口からすぐの所に生えていた。

大石内蔵助手植えの桜
大石内蔵助手植えの桜
1676年(延宝4年)、阿久利姫が輿入れのために三次を出立する際、迎えにやってきた大石良雄が手植えしたと伝えられる枝垂れ桜。
この時、大石良雄は17歳で、家老職には就いていない。桜を手植えしたとかいうから、もうちょっと年を取っていたのかと思ったよ。
大石内蔵助手植えの桜
1676年(延宝4年)、阿久利姫が輿入れのために三次を出立する際、迎えにやってきた大石良雄が手植えしたと伝えられる枝垂れ桜。
この時、大石良雄は17歳で、家老職には就いていない。桜を手植えしたとかいうから、もうちょっと年を取っていたのかと思ったよ。
近づいて見てみると、花の色は普通の桜よりも白くて小さく、清楚な感じを受ける花だった。
幹は苔むしており、植えられてからの長い年月を感じさせる。
植えた人も、その主君も早くに亡くなってしまったが、植えられた桜が、300年以上もここで花を咲かせ続けてきたのかと思うと、感慨深いものがある。
幹は苔むしており、植えられてからの長い年月を感じさせる。
植えた人も、その主君も早くに亡くなってしまったが、植えられた桜が、300年以上もここで花を咲かせ続けてきたのかと思うと、感慨深いものがある。



大石内蔵助良雄手植えの桜
300年以上も生きているという桜の花を見るにつけ、人の一生の儚さを思わずにはいられない。
300年以上も生きているという桜の花を見るにつけ、人の一生の儚さを思わずにはいられない。
この寺を菩提寺として建てた三次浅野藩だが、代々継嗣に恵まれず、1720年に5代88年で途絶え、廃藩となっている。
桜の木の傍には、中村憲吉の「古り(ふり)のこる枝垂桜や血筋はやく絶えし国主(こくしゅ)の菩提寺の庭」という歌碑が建てられていた。
憲吉は早くに途絶えた三次浅野藩に世の無常を感じたのだろうか。

中村憲吉の歌碑
昭和6年に鳳源寺を訪れた際に詠んだ歌らしい。「古り(ふり)のこる枝垂桜や血筋はやく絶えし国主(こくしゅ)の菩提寺の庭」と書いてある。
浅野藩の菩提寺に残る桜の古木を見て、5代88年で断絶した三次浅野藩のことを思って歌った歌なんだろう。
継嗣に恵まれなかった三次浅野藩は、2代目長照、3代目長澄と広島本藩から養子を迎えたが、長澄の嫡子であった4代目長経は10歳で夭逝、その弟の5代目長寔は7歳で亡くなり、血筋が途絶えた。
昭和6年に鳳源寺を訪れた際に詠んだ歌らしい。「古り(ふり)のこる枝垂桜や血筋はやく絶えし国主(こくしゅ)の菩提寺の庭」と書いてある。
浅野藩の菩提寺に残る桜の古木を見て、5代88年で断絶した三次浅野藩のことを思って歌った歌なんだろう。
継嗣に恵まれなかった三次浅野藩は、2代目長照、3代目長澄と広島本藩から養子を迎えたが、長澄の嫡子であった4代目長経は10歳で夭逝、その弟の5代目長寔は7歳で亡くなり、血筋が途絶えた。
そんなことを思いながら境内の桜を見ていると、華やかな桜が少し物悲しく見えるのである。
なんて、柄じゃないけどね・・・・
なんて、柄じゃないけどね・・・・



鳳源寺境内の桜と山門の枝垂れ桜
写真では見えにくいと思うけど、さかんに花が散っていた。華やかな桜だけど、散るときはなんともいえず、寂しい気分になるね。
写真では見えにくいと思うけど、さかんに花が散っていた。華やかな桜だけど、散るときはなんともいえず、寂しい気分になるね。
義士堂と遺髪塔
浅野家の菩提寺ということで、お寺には、初代藩主 浅野長治公が造ったという神道碑や歴代藩主の菩提塔などが残されている。



左/浅野長治公石像 右/浅野長治の建てた神道碑
石像は、1999年に建立されたもの。神道碑は、庶子であった浅野長治に三次藩を立藩させた父親 浅野長晟の義恩と遺徳を偲んで、寛永15年(1638年)の長晟の7回忌に建てられたものだそうだ。
石像は、1999年に建立されたもの。神道碑は、庶子であった浅野長治に三次藩を立藩させた父親 浅野長晟の義恩と遺徳を偲んで、寛永15年(1638年)の長晟の7回忌に建てられたものだそうだ。



左/浅野長照、長経、長寔の合塔 右/浅野長澄 菩提塔
左が2代藩主長照と、10歳足らずで亡くなった4代、5代藩主の長経、長寔の合塔。右が少し離れた山の中にある3代藩主長澄の菩提塔。
2代藩主長照には男子がなかったので、甥っ子である長澄(3代藩主)を養子に迎えている。長経、長寔は長澄の子で、長照とは直接の血縁関係にはない。
何故、親子でもない長照と、長経、長寔を一緒に弔い、父親の長澄を別の離れた場所に弔っているのかはよく分からない。
左が2代藩主長照と、10歳足らずで亡くなった4代、5代藩主の長経、長寔の合塔。右が少し離れた山の中にある3代藩主長澄の菩提塔。
2代藩主長照には男子がなかったので、甥っ子である長澄(3代藩主)を養子に迎えている。長経、長寔は長澄の子で、長照とは直接の血縁関係にはない。
何故、親子でもない長照と、長経、長寔を一緒に弔い、父親の長澄を別の離れた場所に弔っているのかはよく分からない。
また、初代藩主浅野長治公の娘 阿久利姫が赤穂藩主 浅野内匠頭長矩公の正室ということで、境内の一角には義士堂や、阿久利姫の石像など、赤穂義士に所縁のものも建てられている。



左/瑤泉院(阿久利姫)の遺髪塔 右/瑤泉院(阿久利姫)石像
阿久利姫は、夫の死後、落飾して瑤泉院(ようぜんいん)と称した。右の写真の石像は1999年に建てられたものらしい。
阿久利姫は、夫の死後、落飾して瑤泉院(ようぜんいん)と称した。右の写真の石像は1999年に建てられたものらしい。



左/義士堂 右/義士堂に納められた義士の木像
義士堂には、初代藩主浅野長治、阿久利姫、浅野内匠頭長矩、他、赤穂の義士47人の木像が納められている。木造は、三次市に住む藤原藤太郎氏が昭和4年に完成させ、お寺に奉納された物らしい。
義士堂には、初代藩主浅野長治、阿久利姫、浅野内匠頭長矩、他、赤穂の義士47人の木像が納められている。木造は、三次市に住む藤原藤太郎氏が昭和4年に完成させ、お寺に奉納された物らしい。
12月には、ここ鳳源寺を中心として、赤穂義士や瑤泉院に扮した人たちの行列が行われるらしい。阿久利姫をモチーフにした「あぐりん」というマスコットキャラクターも出るらしいから12月になったら来てみようかな。
あぐりん、可愛いからね。
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