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奥出雲おろちループと月山富田城・出雲大社 ④

月山富田城 ②(御子守口、千畳平)


駐車場から一番近い御子守口からお城に入って行くと、千畳平(せんじょうひら)への入り口があった。

千畳平は、富田城の一番外側に突き出した部分で、広大な曲輪になっており、戦の時には兵士が勢ぞろいをする場所だったそうだ。

千畳平入り口の階段
御子守口から千畳平へと登る階段 
地図で見ると、一番簡単にお城に入れる道は御子守口に見えたのだが、実際は道幅4mくらいの細くて急な坂道で、非常に歩きにくい。
しかも、入り口近くに千畳平、その反対側には戦になると兵士の待機場になったであろう神社やお寺もあるので、大軍で攻め込むのは難しそうだ。
第一次月山富田城の戦いでは、菅谷口がメインの戦場になったようだが、御子守口から侵入しようとしなかったのはなんとなく分かる気がする。

入り口から千畳平へは100mほどだが、雨に濡れた石畳はつるつる滑って非常に歩きにくい。
雨降りに来た人は要注意だ。

千畳平へと続く道
千畳平へと続く道
石畳は綺麗なんだけど、ものすごく滑る。
人には見せられないようなへっぴり腰でよたよたと歩く羽目に・・・
晴れた日を選んで来た方がよさそうだ。

兵士が勢ぞろいしたという千畳平はさすがに広い。案内板によると、縁の方には櫓が建てられていたそうだ。

千畳平
千畳平
かなり広い。ただ、1万5千人もいた尼子の兵が全員入ったかというと、少し厳しい気もする。主だった武将が入ったのかな?

千畳平の石垣space.jpg千畳平 案内板
左/千畳平の石垣  右/千畳平案内板
案内板によると、石垣の突き出した部分、数か所に櫓が築かれていたそうだ。ただの広場ではなく、お城の重要な防衛ラインだったようだ。

千畳平の縁に立ってみたが、植生が強くて町の方を見ることができなかった。しかし、櫓があったということは、昔は木も伐採されて、谷に近づく敵兵をここから狙い撃ちにしていたのだろう。

今のお城の姿からは想像もできないけどね・・・

月山富田城 ③(太鼓壇)


千畳平を奥まで進み、尼子神社の前を通って一段高い所に上がったところが、太鼓壇(たいこのだん)だ。

ここには、太鼓のつり下げられた建物が建てられており、士気を鼓舞したり、時刻を知らせたりするのに使われていたそうだ。

尼子神社
尼子神社
尼子三代城主と尼子十勇士の霊を祀っている。明治時代に建立されたものらしい。

太鼓壇には、山中鹿介(幸盛)の銅像が立っていた。ここで、戦国武将の中でも人気のある武将、山中鹿介について、簡単にまとめてみます。

山中鹿介(やまなかしかのすけ)は、通説によると1545年(天文14年)に生まれた。山中家は、出雲尼子の二代目清定の弟 幸久の末裔で、尼子の一門であったが、2歳のときに父親 満幸をなくし、かなり貧しい暮らしをしていたようだ。

武芸をよくし、第二次月山富田城の戦いでは品川大膳(だいぜん)を一騎打ちで破るなど活躍した。しかし、この戦いは、先に書いた通り、兵糧攻めに転じた毛利氏が勝利し、尼子氏は滅亡している(永禄9年(1566年)11月21日)。

山中鹿介の銅像space.jpg山中鹿介銅像 解説板
山中鹿介銅像
三笠山に懸かる三日月を拝して、「我に七難八苦を与え給え」と祈念したという逸話に基づき、昭和53年に建立された像。この像は、三笠山(富田城の川向かいにある山)の方に向かって建てられている。

尼子氏の滅亡により牢人となった山中鹿介は、新宮党事件の際に殺された尼子誠久の息子 尼子勝久を担ぎ出して、尼子家再興の戦いを始めた。新宮党事件の際に赤ん坊だった尼子勝久は、危うい所を助け出され、京都の東福寺で僧侶になっていたのだ。

毛利の九州攻めに乗じて勢力を伸ばした尼子再興軍だが、月山富田城を攻め落とせないでいるうちに、北九州から主力を引き戻してきた毛利軍と、富田城の南方10Kmほどの所にある布部山(ふべやま)で激突(元亀年元年(1570年)2月14日)。

数に勝る毛利軍が勝利し、その後尼子の勢力は次第に衰えて、1571年には尼子再興軍は出雲から一掃されている。

尼子十勇士スタンプラリーチラシ
尼子十勇士スタンプラリーチラシ
山中鹿介の銅像の傍には、尼子十勇士スタンプラリーのスタンプが置いてあった。
山中鹿介は、若武者達のリーダー的存在であり、部下に変な名前をつけていたらしい。それが尼子十勇士のもとになったようだ。
寺本生死介(てらもとせいしのすけ)とか、尤道理介(もっともどうりのすけ)とか、変な名前の者が多いため、実在性を疑問視されていたようだが、中には実在したことが確認されている者もいるそうだ。

その後も尼子再興のために戦った山中鹿介だが、最後は織田信長を頼り、羽柴(豊臣)秀吉のもとで信長の中国攻めに参加。

播磨上月城を奪取するも、毛利の大軍に囲まれて降伏。尼子勝久は切腹させられ、山中鹿介は捕えられて移送中、備中松山城の近くの阿井の渡しで殺されている。

主家最高のために生涯をささげ、不屈の精神で毛利に挑み続けた山中鹿介は、日本人の精神性にあっているのか、高く評価され、各地に供養塔や記念碑が建てられている。
また、ニッカウヰスキーの紋章のデザインにも、鹿介の兜が使われているそうだ。

自分も、彼の不屈の精神を少しは見習わないとね・・・




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しんどいわ太郎

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別のブログを立ち上げる予定ですが、ここには季節ネタをちょくちょくあげて残しておくつもりです。
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