鞆の浦①
鞆の浦
前の日から晴れたので鞆の浦に行くことにした。
御手洗に行ったときから、同じ潮待ちの港である鞆の浦に来てみたかったのだが、ようやく訪れる機会が得られた。

鞆の浦のシンボル 常夜燈と雁木
御手洗は航海技術が進んで「沖乗り」と呼ばれる航路が取られるようになる江戸時代中頃から発展した港町であるのに対し、鞆の港は「地乗り」と呼ばれる沿岸航路をとっていた時代から港として栄えた町である。
瀬戸内海では満潮時に豊後水道や紀伊水道から潮が流れ込んで鞆の浦沖でぶつかり、逆に干潮時には鞆の浦沖を境にして東西に分かれて潮が流れ出していく。
今の船のように動力を持たない昔の船は、鞆の港で潮の流れが変わるのを待ち、潮の流れを利用して航行する必要があったため、鞆は古代から港として栄えたのである。
そのため、町には古くからの言い伝えや歴史的建造物が多数残っている。
駐車場の近くに万葉集の歌碑があった。奈良時代にはすでに港があったのだろう。

730年、大伴旅人(おおとものたびと)が亡き妻を想い歌った歌。万葉の時代から港として利用されていたことが分かる。 「吾妹子之 見師鞆浦之 天木香樹者 常世有跡 見之人曽奈吉(吾妹子(わぎもこ)が見し鞆の浦のむろの木は常世(とこよ)にあれど見し人ぞなき)」と書いてある。「大宰府に行くときに私の妻が目にした鞆の浦のむろの木は今も変わらずにあるが、それを見た妻はもう亡くなって今はいなくなってしまった。」という、妻を失った悲しみを込めて歌った歌である
早速、海岸沿いを歩いてみた。
海岸沿いには大規模な雁木とその向こうに常夜燈が見られた。「浜の大雁木」というらしい。



浜の大雁木((雁木とは、潮の満ち引きに関係なく荷卸し等ができるように作られた階段状の構造物である) 1811(文化8)年に涌出岨(わくでそ)を埋め立てた際に造られたものだという。これだけ大規模な雁木が見られるのは鞆の浦だけになったそうだ。
雁木の側に小さな社があり、そこに力石というのがあった。



小さな社とそこにあった力石(重さ140~200kg) 私の力では動きそうにない・・・
江戸時代、船の荷揚げに従事していた仲仕(なかし)たちが、祭礼の場などでこの力石を持ち上げ、力と技を競ったものだという。港町の活気が伝わってくるようだ・・・
少し歩くと常夜燈にたどり着く。この常夜燈は、1859(安政6)年に西町の人々によって寄進されたものだという。



常夜燈 高さ5m以上ある。南面に「金毘羅大権現」、北面に「当所祇園宮」の石額が掲げられている。どちらも海上安全の神様
常夜燈は、町から離れた波止の突端にあるものと勝手に想像していたのだが、町からすぐのところというか、ほとんど町中に建てられていたのが意外だった・・
町をぶらつきながら、大可島(たいがじま)の下にある大波止へ向かった。

鞆の町並み 港の中心地 西町の町並み 道は狭いが、貴重な町屋が残る。
大波止は台風などの強風による大波から船を守るため、1791(寛政3)年に大可島下から50間(約90m)、淀媛神社下から20間(約36m)の波止が作られ、1811(文化8)年に播州高砂の工楽松右衛門により大規模修理と延長が行われて今の80間(約144m)になったらしい。



左/大波止 かつてはここの先端にも常夜燈があったという。 右/船番所跡 ここから港に出入りする船を見張っていたのだろう。
大波止の根元部分、大可島の崖に船番所の跡が残っている。船番所は港を出入りする船の出入りや安全を管理するために江戸時代の初めに、最初の鞆奉行・萩野新右衛門重富によって造られたものだという。
建物は大正時代に立て替えられたという個人所有の民家だが、立派な石垣に当時の面影を見ることができる。
鞆の浦には他にも「焚場(たでば)」というものが残されている。
木造船の船底に付着したフジツボやフナ虫などを焼き払い、乾燥させて船命を長らえさせるもので、船体の修理も行われた、今でいうドックのようなものらしい。
鞆の浦は、江戸時代の「常夜燈」、「雁木」、「波止場」、「焚場」、「船番所」の全てが全国で唯一残っている場所だという。

鞆城跡から見た鞆の港 波止により、2重3重に守られているのが分かる
1000年以上にわたり、港湾都市としての繁栄を誇った鞆の町だが、技術の進歩により潮待ちの港が必要なくなってきたこと、交通の中心が汽車や自動車に移り、それらと接続容易な尾道などに物流の拠点としての地位を奪われていったことにより、近代化の波から取り残されてしまう。
しかし、そのお陰で貴重な文化遺産といえる町並みが残ったのだと思うと、ちょっと複雑な気分である。
※地図はこちら
前の日から晴れたので鞆の浦に行くことにした。
御手洗に行ったときから、同じ潮待ちの港である鞆の浦に来てみたかったのだが、ようやく訪れる機会が得られた。

鞆の浦のシンボル 常夜燈と雁木
御手洗は航海技術が進んで「沖乗り」と呼ばれる航路が取られるようになる江戸時代中頃から発展した港町であるのに対し、鞆の港は「地乗り」と呼ばれる沿岸航路をとっていた時代から港として栄えた町である。
瀬戸内海では満潮時に豊後水道や紀伊水道から潮が流れ込んで鞆の浦沖でぶつかり、逆に干潮時には鞆の浦沖を境にして東西に分かれて潮が流れ出していく。
今の船のように動力を持たない昔の船は、鞆の港で潮の流れが変わるのを待ち、潮の流れを利用して航行する必要があったため、鞆は古代から港として栄えたのである。
そのため、町には古くからの言い伝えや歴史的建造物が多数残っている。
駐車場の近くに万葉集の歌碑があった。奈良時代にはすでに港があったのだろう。

730年、大伴旅人(おおとものたびと)が亡き妻を想い歌った歌。万葉の時代から港として利用されていたことが分かる。 「吾妹子之 見師鞆浦之 天木香樹者 常世有跡 見之人曽奈吉(吾妹子(わぎもこ)が見し鞆の浦のむろの木は常世(とこよ)にあれど見し人ぞなき)」と書いてある。「大宰府に行くときに私の妻が目にした鞆の浦のむろの木は今も変わらずにあるが、それを見た妻はもう亡くなって今はいなくなってしまった。」という、妻を失った悲しみを込めて歌った歌である
早速、海岸沿いを歩いてみた。
海岸沿いには大規模な雁木とその向こうに常夜燈が見られた。「浜の大雁木」というらしい。



浜の大雁木((雁木とは、潮の満ち引きに関係なく荷卸し等ができるように作られた階段状の構造物である) 1811(文化8)年に涌出岨(わくでそ)を埋め立てた際に造られたものだという。これだけ大規模な雁木が見られるのは鞆の浦だけになったそうだ。
雁木の側に小さな社があり、そこに力石というのがあった。



小さな社とそこにあった力石(重さ140~200kg) 私の力では動きそうにない・・・
江戸時代、船の荷揚げに従事していた仲仕(なかし)たちが、祭礼の場などでこの力石を持ち上げ、力と技を競ったものだという。港町の活気が伝わってくるようだ・・・
少し歩くと常夜燈にたどり着く。この常夜燈は、1859(安政6)年に西町の人々によって寄進されたものだという。



常夜燈 高さ5m以上ある。南面に「金毘羅大権現」、北面に「当所祇園宮」の石額が掲げられている。どちらも海上安全の神様
常夜燈は、町から離れた波止の突端にあるものと勝手に想像していたのだが、町からすぐのところというか、ほとんど町中に建てられていたのが意外だった・・
町をぶらつきながら、大可島(たいがじま)の下にある大波止へ向かった。

鞆の町並み 港の中心地 西町の町並み 道は狭いが、貴重な町屋が残る。
大波止は台風などの強風による大波から船を守るため、1791(寛政3)年に大可島下から50間(約90m)、淀媛神社下から20間(約36m)の波止が作られ、1811(文化8)年に播州高砂の工楽松右衛門により大規模修理と延長が行われて今の80間(約144m)になったらしい。



左/大波止 かつてはここの先端にも常夜燈があったという。 右/船番所跡 ここから港に出入りする船を見張っていたのだろう。
大波止の根元部分、大可島の崖に船番所の跡が残っている。船番所は港を出入りする船の出入りや安全を管理するために江戸時代の初めに、最初の鞆奉行・萩野新右衛門重富によって造られたものだという。
建物は大正時代に立て替えられたという個人所有の民家だが、立派な石垣に当時の面影を見ることができる。
鞆の浦には他にも「焚場(たでば)」というものが残されている。
木造船の船底に付着したフジツボやフナ虫などを焼き払い、乾燥させて船命を長らえさせるもので、船体の修理も行われた、今でいうドックのようなものらしい。
鞆の浦は、江戸時代の「常夜燈」、「雁木」、「波止場」、「焚場」、「船番所」の全てが全国で唯一残っている場所だという。

鞆城跡から見た鞆の港 波止により、2重3重に守られているのが分かる
1000年以上にわたり、港湾都市としての繁栄を誇った鞆の町だが、技術の進歩により潮待ちの港が必要なくなってきたこと、交通の中心が汽車や自動車に移り、それらと接続容易な尾道などに物流の拠点としての地位を奪われていったことにより、近代化の波から取り残されてしまう。
しかし、そのお陰で貴重な文化遺産といえる町並みが残ったのだと思うと、ちょっと複雑な気分である。
※地図はこちら
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