縮景園 ①
11月22日から30日まで縮景園で「もみじまつり2014」というのが開かれ、もみじのライトアップが行われるというので行ってみる事にした。
縮景園は広島城の北東、京橋川沿いにある回遊式(歩いて見て回る形式)の日本庭園だ。
元和(げんな)6年(1620)、広島藩主 浅野長晟(ながあきら)(浅野初代藩主)が家老で茶人の上田宗箇に別邸として作らせたのがはじまりで、歴代藩主によってたびたび改修が行われている。
七代藩主 浅野重晟(しげあきら)が京都の庭師 清水七郎右衛門に行わせた大改修では、跨虹橋(ここうきょう)をはじめ、現在の庭園の原型ができたといわれている。

跨虹橋(ここうきょう)と清風館
昭和15年(1940)に浅野家から広島県に寄付され、国の名勝にも指定されたが、昭和20年(1945)8月6日、原爆によって壊滅した。
戦後、少しずつ復旧がすすめられ、昭和26年(1951)には開園、1970年代にはほぼ復旧が完了している。

被爆直後の縮景園 園内は避難場所と水を求める人であふれかえり、ここで多くの人が亡くなった。
庭園には濯纓池(たくえいち)という大きな池が造られ、そのほぼ中央に清風館(せいふうかん)という大きな茶室と跨虹橋(ここうきょう)が、池の周囲には四阿(あずまや)や小高い山が造られている。



左/清風館 庭園入り口から入ってすぐの所にある。中ではよく茶会とか開かれているので、いまだに中に入ったことがない・・・ 右/清風館説明



左/濯纓池(たくえいち) 面積は8,020㎡で、敷地の20%を占めるそうだ。 池には大小約10個の島が並び、鶴と亀をかたどっているらしい。頼久寺庭園もそうだが、日本庭園ではよくある形式。でも、私にはどれが鶴でどれが亀かさっぱり分からない・・・
夕方のライトアップには時間があるので、園内をぐるりと回ってみる。
まずは、庭園の東側のエリアへ。
ここには、迎暉峰(げいきほう)という園内最大の山があり、その山の周りには有年場(ゆうねんじょう)という小さな水田や、香菜圃(こうさいほ)という茶畑、薬草園などが造られている。



左/迎暉峰(げいきほう)と有年場 迎暉峰は高さ10m。園内最大の山。有年場は小さな水田で、藩主が田植えをして五穀豊穣を祈ったそうだ。 右/迎暉峰(げいきほう)説明 今はビルしか見えないが、かつてはここから似島(にのしま)や弥山(みせん)(宮島にある山)を望むことができたという。江戸時代は今の2号線の辺りが海岸線だったようだ。

迎暉峰(げいきほう)からの眺望。中央に見えるのが跨虹橋。その右手のもみじの傍にある四阿(あずまや)が悠々亭(ゆうゆうてい)。かつては、茶会や歌会が行われていたそうだ。
迎暉峰に登る途中には、原爆に耐えた大銀杏や、藩主が京橋川の桃や行きかう舟を眺めたという看花榻(かんかとう)もある。



左/原爆に耐えた数少ない木の一本 大銀杏。来た時期が遅すぎたのですでに丸裸・・・ 右/看花榻(かんかとう) 座席がロクロ式になっていて回転するようになっていたそうだ。藩主がここで、川舟や川岸の桃の花を鑑賞していたらしい。
迎暉峰(げいきほう)から西に歩いて庭園北側のエリアへ。
ここには、かつて稲荷神社があったという祺福山(きふくざん)と、その裏側にひっそりと原爆死没者の慰霊碑が佇んでいる。



左/祺福山(きふくざん) 頂上には、広島藩の繁栄を願い、稲荷神社が建てられていた。 右/原爆慰霊碑 被爆後の縮景園には、おびただしい数の被災者が避難して来て多くの人がここで亡くなった。裏土手には、足の踏み場もないくらいの遺体が折り重なっていたという。この慰霊碑は1枚の写真から発掘された64体の遺体が発見された場所に建てられたものである。
慰霊碑が地味なせいもあるのか、原爆慰霊碑を気に留める観光客は多くはないが、70年前にこの庭園も火に包まれて多くの人が逃げまどい、沢山の人々がここで亡くなった。突如として平穏な生活を奪われ、恐怖と苦痛を味わうことになった数多くの人々のことを想いながら、静かに手を合わせる。
いつまでも平和な時代が続けばいいんだけどね・・・・
縮景園は広島城の北東、京橋川沿いにある回遊式(歩いて見て回る形式)の日本庭園だ。
元和(げんな)6年(1620)、広島藩主 浅野長晟(ながあきら)(浅野初代藩主)が家老で茶人の上田宗箇に別邸として作らせたのがはじまりで、歴代藩主によってたびたび改修が行われている。
七代藩主 浅野重晟(しげあきら)が京都の庭師 清水七郎右衛門に行わせた大改修では、跨虹橋(ここうきょう)をはじめ、現在の庭園の原型ができたといわれている。

跨虹橋(ここうきょう)と清風館
昭和15年(1940)に浅野家から広島県に寄付され、国の名勝にも指定されたが、昭和20年(1945)8月6日、原爆によって壊滅した。
戦後、少しずつ復旧がすすめられ、昭和26年(1951)には開園、1970年代にはほぼ復旧が完了している。

被爆直後の縮景園 園内は避難場所と水を求める人であふれかえり、ここで多くの人が亡くなった。
庭園には濯纓池(たくえいち)という大きな池が造られ、そのほぼ中央に清風館(せいふうかん)という大きな茶室と跨虹橋(ここうきょう)が、池の周囲には四阿(あずまや)や小高い山が造られている。



左/清風館 庭園入り口から入ってすぐの所にある。中ではよく茶会とか開かれているので、いまだに中に入ったことがない・・・ 右/清風館説明



左/濯纓池(たくえいち) 面積は8,020㎡で、敷地の20%を占めるそうだ。 池には大小約10個の島が並び、鶴と亀をかたどっているらしい。頼久寺庭園もそうだが、日本庭園ではよくある形式。でも、私にはどれが鶴でどれが亀かさっぱり分からない・・・
夕方のライトアップには時間があるので、園内をぐるりと回ってみる。
まずは、庭園の東側のエリアへ。
ここには、迎暉峰(げいきほう)という園内最大の山があり、その山の周りには有年場(ゆうねんじょう)という小さな水田や、香菜圃(こうさいほ)という茶畑、薬草園などが造られている。



左/迎暉峰(げいきほう)と有年場 迎暉峰は高さ10m。園内最大の山。有年場は小さな水田で、藩主が田植えをして五穀豊穣を祈ったそうだ。 右/迎暉峰(げいきほう)説明 今はビルしか見えないが、かつてはここから似島(にのしま)や弥山(みせん)(宮島にある山)を望むことができたという。江戸時代は今の2号線の辺りが海岸線だったようだ。

迎暉峰(げいきほう)からの眺望。中央に見えるのが跨虹橋。その右手のもみじの傍にある四阿(あずまや)が悠々亭(ゆうゆうてい)。かつては、茶会や歌会が行われていたそうだ。
迎暉峰に登る途中には、原爆に耐えた大銀杏や、藩主が京橋川の桃や行きかう舟を眺めたという看花榻(かんかとう)もある。



左/原爆に耐えた数少ない木の一本 大銀杏。来た時期が遅すぎたのですでに丸裸・・・ 右/看花榻(かんかとう) 座席がロクロ式になっていて回転するようになっていたそうだ。藩主がここで、川舟や川岸の桃の花を鑑賞していたらしい。
迎暉峰(げいきほう)から西に歩いて庭園北側のエリアへ。
ここには、かつて稲荷神社があったという祺福山(きふくざん)と、その裏側にひっそりと原爆死没者の慰霊碑が佇んでいる。



左/祺福山(きふくざん) 頂上には、広島藩の繁栄を願い、稲荷神社が建てられていた。 右/原爆慰霊碑 被爆後の縮景園には、おびただしい数の被災者が避難して来て多くの人がここで亡くなった。裏土手には、足の踏み場もないくらいの遺体が折り重なっていたという。この慰霊碑は1枚の写真から発掘された64体の遺体が発見された場所に建てられたものである。
慰霊碑が地味なせいもあるのか、原爆慰霊碑を気に留める観光客は多くはないが、70年前にこの庭園も火に包まれて多くの人が逃げまどい、沢山の人々がここで亡くなった。突如として平穏な生活を奪われ、恐怖と苦痛を味わうことになった数多くの人々のことを想いながら、静かに手を合わせる。
いつまでも平和な時代が続けばいいんだけどね・・・・
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