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竹原~憧憬の路~④

町並み保存地区 その2


照蓮寺を出て、本町通りを南側に向かって歩いてみる。

古い町並みのなかでひときわ目を引くのが松阪邸。製塩に必要な薪や石炭の問屋の他、塩田、廻船、醸造業などの多角経営で財を成した豪商だ。

松坂邸
松坂邸 屋号は「澤田屋」。「てり・むくり」を持つ大屋根が特徴。

北側に隣接しているのが岩本邸。松坂邸の離れ座敷として建設されたものらしい。

岩本邸 円形の窓space.jpg岩本邸 千鳥を描いた出格子
岩本邸の円形の窓と千鳥の格子。なかなか洒落た作りだ・・・


松坂邸から少し南に歩いた向かい側にあるのは竹鶴邸。「小笹屋(おざさや)酒の資料館」として、一部公開されている。

マッサンこと竹鶴政孝氏の生家だということで、大変賑わっていた。

竹鶴邸(小笹屋酒の資料館)
竹鶴邸 屋号は小笹屋(おざさや)。元は製塩を営んでいたが、享保18年に酒造業を始めたらしい。ある時、裏の竹藪に鶴が飛来して巣を作ったことを「古来、松に鶴と聞くも、竹に鶴とは瑞兆なり」と喜んで「小笹屋竹鶴」と号したそうだ。

マッサンの生家 竹鶴邸space.jpg小笹屋酒の資料館 内部
左/「竹鶴政孝さんはこの家で生まれました」というポスターも貼ってあった。 右/酒の資料館内部 中では日本酒の試飲や販売も行われている。


地蔵堂

竹鶴邸から南側に行ったところには旧笠井邸という屋敷が建っているが、その一本手前を左に入ったところに地蔵堂がある。

本町通り 突当り
本町通りの突き当たり。笠井邸という屋敷が建ち、町の外が見えないような町づくりとなっている。

地蔵堂space.jpg地蔵堂
地蔵堂 この日は憧憬の路のイベントのために通りから地蔵堂が見えなくなっていた。

地蔵堂は、1610年(慶長15年)の下市村の大火により焼失したものを、1649年(慶安3年)に代官 鈴木重仍(しげより)が再建したものだそうだ。

鈴木重仍は塩田を開き、竹原の発展の基礎を作った人物であり、地蔵堂も塩浜の守護として信仰され、上市の胡堂とともに、町の境界神ともなっているようだ。

愛宕神社
愛宕神社

地蔵堂の隣には愛宕神社という神社があった。江戸時代何度か大火事があり、村が被害を受けているので火伏せの神として火産霊(ほむすび・カグツチ)を祀っているということだ。

木造の家が密集して建っているのだから、火事にはどうしても弱いよね・・・

旧笠井邸

町並み保存地区のメイン通りである本町通りの南端にあるのが笠井邸。塩田の浜主であった笠井清八氏が明治8年に建てた家だそうだ。

旧笠井邸
旧笠井邸。アニメ たまゆらでは、「わたしたち展」の会場になったところだ。

ちなみに内部も公開してくれている。

笠井邸内部space.jpg笠井邸内部
笠井邸内部(2階) 憧憬の路のイベントのために竹が飾ってあるので分かりづらいが、一段高くなったところは畳敷きで琴が置いてある。昔は琴の練習や演奏に使っていたのかな?


アニメにも出てくる建物だからなのか、たまゆらのパネル等が飾ってあった。

笠井邸内部space.jpg笠井邸内部
アニメ たまゆらのパネル

たまゆらのパネルspace.jpgたまゆらのパネル
こんなものまで・・・アニメファンなら外せない場所かも・・・

窓からは竹原の町並みがよく見える。笠井邸を修復し、公開してくれているNPO法人ネットワーク竹原さんに感謝。

笠井邸から見た竹原の町並み
笠井邸から見た竹原の町並み。祭りなので人が多い。朝のテレビ番組ZIPの犬も来ていた・・人の少ない時にまた来てみたいな。





竹原~憧憬の路~③

頼惟清(らい ただすが)旧宅

胡堂のすぐ近くに頼惟清旧宅がある。頼山陽の祖父 頼惟清が紺屋(染物屋)を営んでいた家だ。

頼惟清旧宅
頼惟清(らい ただすが)旧宅 母屋は重層屋根、入母屋造、本瓦葺きで塗りごめ造り。頼家一門発祥の地である。

父親から「男の子が生まれたならば学問をさせよ」といわれていた惟清は、子供たちに熱心に学問をさせ、長男春水、四男杏坪(きょうへい)は儒者となり、三男春風は医者となって家を継いだ。

惟清には、生涯の望みとして、「一、男子を学者にすること」「二、富士山をみること」「三、家を新築すること」の三つがあったと言われているが、3つとも子供たちによってかなえられたという。

頼惟清(らい ただすが)旧宅 土間
頼惟清(らい ただすが)旧宅 土間 入り口を入ってすぐに広い土間がある。右側が離れで紺屋の店舗、左が母屋で住居部分だったらしい。

頼惟清(らい ただすが)旧宅 母屋space.jpg頼惟清(らい ただすが)旧宅 離れ
左/左側の母屋の部分 ここで頼山陽も寝泊まりしたのだろうか?  右/離れの紺屋部分 奥に「生涯一片青山」という頼山陽の書が飾ってあった。

頼惟清(らい ただすが)旧宅 庭space.jpg頼惟清(らい ただすが)旧宅 庭から見た母屋
左/庭。頼家の庭には3つの井戸があるのだが、紺屋用、家事用、書道用と使い分けていたらしい。 右/庭から見た母屋。

庭には、頼山陽の詩碑があった。そういえば、安芸灘大橋にも頼山陽の詩碑があったのを思い出す。鞆の浦の対仙酔楼にも書が残っているというし、広島に本当にゆかりのある人なんだなぁと実感する。

頼山陽漢詩碑space.jpg頼山陽詩碑解説
解説によれば、詩碑には、「この我が家は昔読書をしたところだが、その書斎より裏庭を見れば、山は変わらず緑色に映えている。京に出てすっかり都の塵で心身ともに染まってしまいとても恥ずかしいが、こうして帰ってきて山に向かえば昔のままの景色だ」というようなことが書いてあるらしい。山陽が45歳の時、上京した母を送って広島に行った際、竹原に立ち寄った時の詩だそうだ。

一見ただの古い家だが、後に「三頼」と呼ばれた優秀な3人の子供たちが、実際にここで遊んだり勉強していたのかと思うとなんだか特別な空間に思えてくる。



春風館、復古館

頼惟清旧宅の近くに、春風館と復古館という建物がある。

春風館は、医者となって家を継ぎ、塩田経営も行ったという頼春風の邸宅で、復古館は頼春風の養子である小園が三男の三郎を分家、独立させた家だ。

春風館space.jpg復古館
左/春風館 頼山陽はたびたびこの春風館を訪れたという。 右/復古館

どちらも小堀遠州流の茶人不二庵の設計と伝えられる立派な邸宅だ。外観のみの公開で、内部が非公開なのが少し残念。



照蓮寺

頼惟清旧宅のすぐ北側、胡堂の裏手にあるお寺は、照蓮寺というお寺だ。もとは定林寺という曹洞宗の禅寺で、竹原小早川氏の子弟の学問所にもなっていたという。

照蓮寺 鐘楼門
鐘楼門 たまゆらにも出てくる。

竹原小早川氏は毛利元就の三男が養子となったことで有名な家(後の小早川隆景)。

小早川隆景は謀略の得意な智将で、水軍を率いて山陽方面の攻略を担当し、兄の吉川元春とともに毛利本家を支え、のちに豊臣秀吉の五大老にもなった人物だ。

江戸時代になって領主が変わり、一時荒廃していたのが浄土真宗のお寺として再建され、照蓮寺となったという。

照蓮寺 本堂
照蓮寺本堂 照蓮寺では、頼山陽の父 春水や叔父 春風も学んだそうだ。

本堂の裏手には小祇園(しょうぎえん)という庭園があり、多くの文人が訪れ詩を詠んだという。

入っていいものかどうかよく分からなかったの見る事はできなかったけど、県下でも指折りの名園だというし、いつか見てみたいなぁ。





竹原 ~憧憬の路~ ②

西方寺

いよいよ町並み保存地区に入り、竹原を訪れた人が必ず上るという西方寺へ。

西方寺は、もとは地蔵堂の隣にあった禅寺だったのが、この地にあった妙法寺という禅寺が慶長7年(1602)に火災で焼失したことに伴い、この地に移転、浄土宗に改宗したものらしい。

西方寺山門と階段space.jpg西方寺 階段とたけはらの町並み
左/西方寺山門と階段  右/西方寺階段とたけはらの町並み 市役所前のたまゆらの看板の背景になっているところ

本堂横の通路を通って一段高い高台の上に登っていくと有名な普明閣がある。妙法寺があった頃の本尊である「木造十一面観音立像」(広島県重要文化財)を祀ったもので、京都の清水寺を模して宝暦8年(1758)に建てられたものだという。

普明閣
普明閣 竹原を象徴する建物で、「たまゆら」でもしばしば登場する。

普明閣 廊下space.jpg普明閣からの眺め
左/隣のお堂に続く廊下  右/普明閣からの眺望 ここからは竹原市内を一望できる。生憎の天気だったけど・・・

ただし、現在は平重盛公の持念佛であったという木造十一面観音立像は、普明閣下の守護堂に安置されている。

西方寺 守護堂space.jpg西方寺 鐘楼
左/守護堂 木造十一面観音立像が安置されている。しかし、平重盛公の持念佛だったというのに、室町時代の作と書いてあるのはなぜ? 右/鐘楼 ここからの眺めもいい。

ところで、普明閣に登る途中に小さな洞窟があったのだが、なんだろう??

なぞの洞窟space.jpgなぞの洞窟内部
謎の洞窟。中には、お地蔵さんらしき姿が見える・・・


町並み保存地区 その1

西方寺を出て、照蓮寺の方へ向かって町並み保存地区を散策。

上吉井家住宅space.jpgお好み焼き屋 ほりかわ
左/上吉井家住宅 江戸時代に吉井家から分家したもので、塩田経営や酒造業を行っていたという。明治18年に初代竹原郵便局となった。 右/お好み焼き屋 ほり川さん。「たまゆら」に出てくる「ほぼろ」のモデルになったお店。

今のの町並みは江戸時代後期ごろから作られたものだ。

その頃各地に塩田ができたために塩の価格が下落して多くの塩田経営者が没落していったらしいのだが、廻船業や酒造業、醸造業などの複合経営で生き残った商人が大きな屋敷を構えたという。

吉井家住宅space.jpg憧憬の広場
左/吉井家住宅 塩田、廻船、醸造などで栄えた家  右/憧憬の広場と歴史民俗資料館

南北に連なる町並みの北端に位置するのが胡堂だ。商人の町らしく、商売の神様である胡様を守護神として祀っている。南端の地蔵堂とともに、一種の境界神として考えられていたようだ。

胡堂space.jpg胡堂付近の町並み
左/胡堂 江戸中期ごろのものらしい。映画「時をかける少女」に出てくる。写真ではよく分からないが、ここで行き止まりではなく、左右にも道路がつながっている。道のど真ん中に建ててあるところがなんかすごい・・・ 右/胡堂前の町並み


おかかえ地蔵

胡堂の少し手前、憧憬の広場のそばに、おかかえ地蔵という看板があったので入ってみる。

願い事をしながら地蔵を抱え、想像したより軽ければ願いが叶うという、有名なお地蔵さんである。

お抱え地蔵前の坂space.jpgお抱え地蔵
左/おかかえ地蔵様はこの細い坂を登って行ったところにある。 右/おかかえ地蔵様の祠

私も願い事をしながら抱えてみたが、とても重かった。 一生願い事は叶いそうにない・・・

おかかえ地蔵space.jpgおかかえ地蔵
おかかえ地蔵さま。「オンマカカビ サンマエイソワカ」と唱えながら抱える。結構重い・・・

ちなみに、通りから入ってすぐのところにもそれっぽい地蔵様がいるのだが、それはおかかえ地蔵さまではないので注意が必要だ。

通りの近くのお地蔵様
間違って、私に抱えられたお地蔵様。すいません、悪気はなかったんです・・・

よく知らなかったから思いっきり間違ってしまった。願い事どころかバチまであたりそうだ・・・・

ホント、すいませんでした。






竹原 ~憧憬の路~ ①

たけはらの町

一度は行ってみたいと思っていたたけはらの町。アニメ「たまゆら」の舞台となったところだ。

映画「時をかける少女」やNHKの「まっさん」にも出てくるらしい(見たことないけど・・・)。

たけはらの町並みspace.jpg竹原市役所
左/竹原の町並み   右/竹原市役所にはたまゆらの看板とまっさんの垂れ幕が・・・

観光客が多そうなのが嫌で行ったことがなかったのだが、「憧憬の路」というイベントをやっていると聞き、急遽行くことにした。

竹原といえば、竹と酒造というイメージがあるのだが、もともとは平安時代に下鴨神社の荘園地として開墾され、江戸時代初期から塩田による製塩業で栄えた港町だ。

江戸時代からの情緒を残した町並みは安芸の小京都ともいわれ、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。

たけはらの町屋
たけはらの町 たけはらの町屋には竹原格子といわれる格子が見られるのが特徴。



森川家住宅と竹原の歴史

市営駐車場の近くに森川家住宅(竹原市重要文化財)という立派な邸宅がある。

森川家住宅
森川邸表門 

森川家住宅は元竹原町長森川八郎氏の邸宅で、大正時代に第1塩田跡地につくられたもの。森川家は製塩と酒造で財を成した家だそうだ。

土間には竹原の製塩の歴史が掲示してある。

それによると、竹原の塩田は塩田として開発されたものではく、農地として干拓・造成したものの、塩気が強くて作物がうまく育たず放置されていたのを、播州赤穂の商人のすすめで技術者を招いて入浜式塩田として開発したものなのだそうだ。

こうして慶安元年(1648年)ごろから始まった竹原の製塩は、昭和35年(1960年)国の施策により塩田が廃止されるまでの間の約300年間竹原の経済を支え続けた。

製塩の歴史space.jpg塩田で使用した道具
左/竹原の製塩の歴史  右/塩田で使用した道具

使用する木材から吟味したという建物は、立派の一言。広い庭園もあり、個人の邸宅とは思えないほどだ。

森川邸母屋space.jpg森川邸内部
左/森川邸母屋  右/母屋内部 広い・・・我が家の何倍あることか・・・・  母屋は沼隈(現在は福山市の一部)の明治前期の富豪・山路家の主屋を移築したものだそうだ。

森川邸の庭space.jpg森川邸 庭
左/離れから見た庭 右/母屋から見た庭

森川邸 離れspace.jpg森川邸 離れ内部
左/離れ  右/離れ内部  離れといっても私の家より大きいくらい。ちょっと切ない・・・

製塩で財を成した家らしく、内部には精神在塩の書が・・・

精神在塩の書space.jpg台所
左/精神在塩の書  塩・命ですか? 右/台所 台所はいまいちかな。歴史はかんじるけどね・・・

母屋の大きさに圧倒され、茶室と隠居部屋を見るのを忘れてしまった。また見に来なくちゃ・・・



酔景の小庭

森川邸の目の前に酔景の小庭という公園がある。竹原のシンボル普明閣と旧・日の丸写真館が一望できる新しい公園だ。

酔景の小庭から普明閣を望むspace.jpg日の丸写真館
左/酔景の小庭から普明閣を望む  右/日の丸写真館のアップ 「たまゆら」ではマエストロの写真店になっていたところ

ここには、昔の竹原の様子を記した案内板が置いてあった。

そこには、かつて周囲が塩田であったこと、公園そばの本川が港だったことが書かれていた。

酔景の小庭の案内版
かつての竹原の町並み 現在の市街地である手前部分が塩田だったことが分かる

酔景の小庭の案内版space.jpg現在の本川
左/かつての本川 川をせき止め、人工的に港として作られたそうだ  右/現在の本川 日の丸写真館前の常夜燈と雁木、住吉神社がかつて港だった名残をとどめている。

ここでは、普明閣と日の丸写真館、かつて港だった名残である住吉神社や常夜燈もみることができるので、かつての賑わいに思いを馳せながらお茶で一服するのもいいかもしれない。



頼山陽 広場

憧憬の路のイベントが始まる夕方まではまだまだ時間があるので、、酔景の小庭から300mくらい南側にある「頼山陽広場」の方へ行ってみた。

たけのこの車どめ
公園の入り口にはたけのこの形をした車止めがある。アニメ「たまゆら」で、ももねこさまがじゃれついていたやつだ・・・

ここには、頼山陽の銅像と詩吟などで有名な川中島の戦いを描いた漢詩「題不識庵撃機山図」(不識庵 機山を撃つの図に題す)の詩碑がある。

頼山陽の銅像と詩碑space.jpg頼山陽 詩碑の解説?
左/頼山陽の銅像と詩碑 右/詩碑の解説? 「題不識庵撃機山図」は第4次川中島合戦で武田軍の啄木鳥戦法を見破った上杉謙信が妻女山を下りて武田の本陣に攻め込んだ戦いを描いたもの

頼山陽は江戸時代後期の歴史家、思想家であり、「日本外史」などの著書は幕末の尊王攘夷運動に影響を与えたといわれている。

彼自身は大阪出身で竹原の出身ではないのだが、祖父をはじめとする一族が竹原出身で竹原をしばしば訪れていたことから竹原ゆかりの人として銅像が建てられたのだ。

ちなみに、彼の父の春水、叔父の春風、杏坪(きょうへい)をはじめとして竹原は多くの学者、文人を輩出している。

文化、学問を尊重する竹原の文化のおかげだとどこかに書いてあったけど、単に頼家の人が優れているだけのような気もしなくもない・・・・






プロフィール

しんどいわ太郎

Author:しんどいわ太郎
いつの間にか、1年遅れになっちゃった・・・
別のブログを立ち上げる予定ですが、ここには季節ネタをちょくちょくあげて残しておくつもりです。
新しいブログにデータを移すのはめんどくさいからね・・・

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